マスコミ

2009年12月 2日 (水)

本日の「怒」091202/相変わらずの最高裁「とんでも判決」と「目的のためには手段を選ばず」の一部マスコミの愚劣さ


 仕事の原稿がてんてこまいで、ブログの更新が滞っています。ネタには事欠かないのですが・・・しかし、こればかりは書かないわけにはいかない。

 11月30日に最高裁でまた「とんでも判決」がありました。

**************************
朝日新聞 http://www.asahi.com/national/update/1130/TKY200911300263_01.html

 政党のビラを配るためにマンションに立ち入ることは住居侵入罪にあたる——。「葛飾政党ビラ配布事件」の30日の最高裁判決は、そんな結論を導いた。被告側は、憲法が保障する「表現の自由」が狭められないかと危機感を強める。

 「紋切り型の判決だ」。住居侵入罪に問われ、罰金5万円の有罪判決が確定する住職の荒川庸生被告(62)は最高裁判決の後、「言論弾圧に歯止めをかけるべき最高裁が、自らその役割を放棄した」と怒りをあらわにした。

 高校生のころから共産党のビラを配り、そのために集合住宅にも何度となく入ってきた。「受け取った人に読んでもらいたい」という気持ちが強く、玄関先の集合ポストではなく、なるべくドアポストに入れてきた。それが突然、犯罪にされたことはどうしても納得いかないという。

 一審の東京地裁は「マンション内に立ち入ってビラを配ることが、当然に刑罰をもって禁じられている行為であるとの社会通念は確立されていない」と判断。無罪を言い渡され、両手を挙げて喜んだ。しかし、検察側の控訴を受けた東京高裁は逆転有罪。今度は怒りでこぶしを突き上げた。

 最高裁判決が弁論を開かずに判決言い渡しを決め、有罪が確定する見通しになっても「今まで犯罪と言ったのは、警察、検察と東京高裁だけだ。決して犯罪でないと確信している」と望みをかけてきた。だが自分の主張は「憲法の番人」たちに退けられた。

 荒川住職は判決後の記者会見で「最高裁判決によって、ビラ配りはいつでも摘発できることになってしまう。今でも政治的であれ商業的であれ、ビラは配られている。最高裁はこの現状をどう見るのか」と指摘。「たかがビラというが、国民が持つ訴える権利や知る権利のため、ビラという形を取らざるを得ないことがある。今後もビラを配り、受け取る権利を守っていきたい」と強調した。

《解説》最高裁判決は荒川住職のビラ配りを「私生活の平穏を侵害するものと言わざるをえない」と述べた。外部者にはマンション内に立ち入って欲しくないという住民側の意思を重視した結論だ。確かに、様々な人が出入りすれば不安を感じる人はいる。プライバシーや防犯に対する社会全体の意識の高まりもある。

 だが、判決がもたらす影響を考えると、刑事罰を科すことには疑問が残る。

 荒川住職の上告を棄却した同じ第二小法廷は昨年4月、東京都立川市の自衛隊官舎で自衛隊イラク派遣に反対するビラを配った3人についても、有罪を維持する判決を言い渡した。このときの判決は官舎の状況や、3人が自衛隊向けのビラを度々配り、被害届が前から警察に出されていたことなどを考慮し、「法益侵害の程度が極めて軽微だったとはいえない」と被告側の主張を退けた。

 一方、荒川住職の場合は共産党の議会報告などを一般のマンションに配っていた。事件前に苦情を受けていたわけではなく、一審・東京地裁判決も指摘したように、立川の事件とは「相当に事案を異にする」のは間違いない。しかし、最高裁の判決はこの点について言及をしておらず、両事件の違いは罰金の額だけだということになる。

 今回の判決に従えば、ビラを配るために集合住宅に入ることは多くの場合、犯罪と認定されるだろう。そのことで得られる「平穏」と、表現の自由という、市民の大切な権利の行使を萎縮(いしゅく)させる影響とを比較すると、判決はあまりに形式的だ。

 仮に有罪とせざるを得ないとしても、自宅が強制捜査を受け、逮捕から起訴までの23日間、勾留(こうりゅう)が続くに値するほどの行為だったのか。この点についても、判決には、関与した4人の裁判官の意見がない。(中井大助)
**************************

 この判決には、致命的な問題が三点あります。

 ひとつは「共産党のビラだから起訴した」という点です。

 私は、いまだかつて不動産広告や宅配ピザのビラ配りで起訴された人を知りません。恐らく「共産党だより」の数百倍の数がポストに投げ込まれているはずですが、こうしたビラ配りを検察庁は何故放っておくのでしょうか。私は、自民党が総選挙前に全国で配布した民主党中傷ビラが、当該のマンションや同様の構造、規制を持つマンションにどのくらい投げ込まれたのかに興味があります。誰かか、それで告発しないかしら・・・果たして告発を受けて検察庁はどうするか・・・もちろん、起訴しないに決まっていますが。

「不愉快」度合いなら、一番不愉快なものは「ピンクビラ」でしょう。こういうものの「表現の自由」は、警察もがっちり守っているのです。(一昔前ですが、電話ボックスで電話中にビラを貼りにきたやつを入れないでいたら、復讐になぐられたことがあります。交番に被害届を出そうと思ったら「逆らうから悪いんだ」と言われました。警察が何を守ろうとしているのかを雄弁に物語る経験でした)

 本来なら「政治的主張を述べるビラ」こそ、こうした自由が守られるべきものなのです。

 第二点は、不当に長い勾留と捜査をした結果であるということ。

 事前に苦情がなかったにもかかわらず(その点が、立川の反戦ビラの事件とは決定的に違う)いきなり逮捕し、23日間の「満額回答」(送検まで1日、起訴まで2日、起訴前の勾留延長10日×2)と家宅捜索を行なっているのです(もっとも、勾留延長を認めた裁判官もデタラメですが)。

 そもそも勾留延長とは、逃亡や証拠隠滅の恐れがある場合に許される「例外」であるべきなのですが、日本ではこの「法律の理念」はすっかり忘れられています。こうした例は勾留延長に限らず、代用監獄や接見妨害など、「悪いことをした疑いがあるやつには何をしても良いのだ」という風潮が強いのです。こうした不当な捜査に対する「甘さ」が、冤罪事件を大量生産してきたのはご存知の通り。

 第三点は、最高裁が意図的に「表現の自由」という憲法問題を避けたことです。

 判決は、「表現の自由そのものを処罰することの合憲性や違憲性が問われているのではない」と表現の自由の問題から意図的に目をそらせました。しかし、警察/検察の捜査が「ピンクビラや宅配ピザのなら良いが共産党のビラはダメ」というものである以上、表現の自由を問題にしないで最高裁の存在意義はどこにあるのでしょうか。

 そして非常に哀しいのは、この判決に疑問を感じている判事が第2小法廷には1人もいない、ということです。この一件だけで、第2小法廷の判事は全員「人権を守る気がない」と断じても良いでしょう。

 さすがに、この判決には疑問を表明した社説がたくさんあります。朝日、毎日、東京に加え、多くの地方紙がしてきていますが、論点を的確にまとめてある、北海道新聞のものを引用します。

***************************
北海道新聞社説(http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/202973.html)
ビラ配布有罪 表現の自由脅かす判決(12月1日)

 民主主義の基本である言論の自由が制約されかねない-。そんな危惧(きぐ)を抱かせる最高裁の判決である。

 政党ビラを配るために東京都葛飾区のマンションに立ち入った僧侶が、住居侵入罪に問われた裁判だ。

 最高裁は、「表現の自由」よりも「住民が平穏に暮らす権利」を尊重すべきだとして、被告の上告を棄却した。罰金5万円とした二審の逆転有罪判決が確定する。

 疑問の多い判決だ。憲法で保障された権利への配慮を欠き、言論活動を萎縮(いしゅく)させる不安を感じる。

 判決は「表現の自由は無制限ではなく、他人の権利を不当に害するものは許されない」と指摘し、処罰を合憲とした。

 その上で、玄関ホールにビラ投函(とうかん)を禁じる張り紙があり、立ち入りは管理組合の意思に反する行為として住居侵入罪の成立を認めた。

 プライバシーの保持、犯罪防止などで住民が部外者の立ち入りに敏感になる状況は分かる。

 だが、政党ビラの投入は逮捕、拘束され、有罪となるほど悪質な行為なのだろうか。刑事罰を科すのは市民感覚とかけ離れている。

 住民の権利を口実に特定の政治的行動を封じ込める。そんな意図があるのかと思いたくもなる。

 一審の東京地裁は「ビラ配布目的の立ち入りを処罰対象とする社会通念は確立していない」と無罪を言い渡した。これが妥当な判断だろう。

 ビラ配布は多くの人々に意見、情報を伝える手段だ。その自由は民主主義を支えている。

 政党ビラに限らず食品、不動産など商業ビラの配布は日常的な経済行為でもある。

 それらの配布についても、刑事責任を問われるのだろうか。

 被告の僧侶が立ち入った時間は昼間のわずか10分足らず。マンション内を騒がせたとはいえない。判決は住居侵入罪の要件を形式的に当てはめただけ、との指摘もある。

 東京都立川市の自衛隊宿舎で自衛隊のイラク派遣に反対するビラを新聞受けに入れ、住居侵入罪に問われた市民運動家3人も、昨年4月の最高裁判決で上告を棄却され、逆転有罪が確定している。

 政府に批判的な政治ビラなどを集合住宅のポストに入れた活動家らが住居侵入罪などで逮捕、起訴される。そうした事件が2004年以降、合わせて4件起きている。

 国連の自由権規約委員会は昨年10月、これらの捜査当局の動きに懸念を表明し、表現の自由への非合理な法律上の制約を廃止するよう政府に勧告した。国際機関からの批判に答える、どんな論法があるのか。
****************************

 これに対して、読売、産経は社説では沈黙を守り、産経は「表現の自由、権利行使に配慮を」という注文を付けながらも「判決は妥当」という解説付きの記事を載せています。

****************************
【政党ビラ配布裁判】表現の自由、権利行使に配慮を
2009.11.30 12:26

 政党ビラを配布するためにマンションに立ち入った行為を有罪と認めた30日の最高裁判決。玄関ホール内にあるドアを開け、廊下部分にまで立ち入った行為について、「法益侵害の程度は軽くない」と、住居侵入罪の成立を認めた。

 問題となったマンションでは、管理組合の理事会で、東京都葛飾区の公報を除くビラなどの投函(とうかん)を禁じる決定がされており、張り紙もあった。

 こうした前提のもとで、最高裁は「政党ビラの配布行為は表現の自由の行使」と指摘。その上で、「表現の自由の行使のためでも管理組合の意思に反して立ち入ったことは、管理権を侵害し、住民の私生活の平穏を侵害するもの」と結論づけた。

 もとより、表現の自由が踏みにじられるようなことはあってはならない。最高裁も判決のなかで「民主主義社会において、特に重要な権利」と述べた。

 たしかに逮捕され、保釈まで23日間にわたって身柄を拘束されたことについては、「行き過ぎ」との見方も根強い。ただ、一方で、マンションの部屋とドア1枚を隔てた廊下に立ち入られ、ドアポストにビラを落とし込まれたことを不快に感じ、警察に通報した住民がいたことも間違いない。

 無罪としていた1審判決も、「居住者の心情への配慮をやや欠いている」と述べた。防犯やプライバシーへの意識が高まるなか、さまざまな考え方を持つ住民が住まうマンションなどでのビラ配布には「表現の自由」と「住民生活の平穏」のはざまで、配慮が求められているといえそうだ。(酒井潤)
*************************************

 配られたものが自民とのビラだったら、産経は何と評価したでしょうか・・・

2009年9月28日 (月)

本日の「怒」090928/本当に「マスゴミ」に成り下がってしまうのか/最近の新聞、テレビの惨いこと


 前原国交相が「八ッ場ダムを中止する」ということを明言しました。民主党の公約ですからある意味で「当然」のことではありますが、連日の報道を見ると「中止は非常識」という大合唱が起こっているように見えます。テレビでも「中止反対」の行政や住民の報道はふんだんに流されています。さて、この報道の嵐は「真実を伝えている」のでしょうか?

 まず、毎日新聞の「小さな」記事と、多くの新聞が報じなかった共同通信の記事をご覧下さい。


*******************************
八ッ場ダム建設:反対住民、国交相を評価 /群馬

 ダム建設事業負担金の支出差し止めを求めて訴訟を起こしている「八ッ場ダムをストップさせる群馬の会」の浦野稔代表は23日、前原国交相の現地視察について「中止の基本方針を変えず、住民の生活再建は内閣として責任を持ってやる意思表示だ」と評価した。地元住民がこの日の意見交換会を欠席したことについては「地元住民も話し合いの場、協議の場を持って、大臣に意見をぶつけてほしい」などと語った。

 また、ダム建設見直しを求めている「八ッ場あしたの会」の渡辺洋子事務局長は同日、前原国交相が視察に訪れたダム建設予定地で、マスコミなどに文書を配布した。随行した民主党国会議員を通じて前原氏に渡したという。

 文書は「八ッ場ダムの中止および生活再建への大臣の英断に心より拍手を送る」などとし、八ッ場ダム事業の費用便益を見直したうえでの情報開示や、ダム建設予定地の生活再建・地域再生などを求めている。同会のほか、6都県でダム建設事業負担金の支出差し止め訴訟を起こしている団体の連合組織「八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会」(嶋津暉之代表)との連名となっている。(毎日新聞)
*******************************

八ツ場ダムで抗議電話が殺到 長野原町に

 前原誠司国土交通相の八ツ場ダム(群馬県長野原町)建設中止方針に対し、高山欣也町長や地元住民が強く反対していることをめぐり、同町役場に「推進なんておかしい」など抗議の電話が殺到していることが24日、分かった。

 同町は電話の本数について明らかにしていないが、職員は「いつも鳴りっぱなしの状態」と疲れ切った表情だ。

 17日未明に前原国交相がダム中止を明言してから連日、「ダムは中止すべきだ」などの電話があるという。中には「このまま進めた方がいい」という意見もあるが、中止に反対する職員の発言を紹介した新聞報道に関し「一職員がどうこう言うのはおかしい」と1時間以上抗議する人も。

 ある職員は「新政権に住民が逆行しているように見えるのか。いろいろな意見があるのはわかるが、地元対国ではなく、下流が水を必要としているのに」と困惑していた。

2009/09/24 20:36   【共同通信】
*******************************

 こうした報道を目にすると「あれ?」と思う人も多いでしょう。「地元民はダムの建設を待ちこがれていて、民主党の「無理難題」に振り回されている「被害者」だ」という報道ばかりだからです。実際にさまざまな情報を見てみると、実態はかなりかけ離れていることがわかります。ここ数日、ようやく「べた」記事扱いで中止「賛成派」がそんざいすることをちらほらと書いている新聞もありますが、「中止反対の集会に集まったのは地区長や政党関係者、工事関係者ばかり」という報道も、大手ではないメディアにはちらほらと見られます。

 酷いのはテレビも同様です。コメンテーターは「中止に反対する住民を追いつめないように」という抑制がかかっていたのでしょうね。どれも一様に「大変ですね」のオンパレード。インタビューに答えていた中止反対派が、「自分たちに何も相談なく公約になったから、そんなものは無効だ」と息巻いていましたが、その公約を掲げた民主党が選挙で国民の支持を得たことにはなーんにも触れません。キャスターがそれを言いかけて反対派の住民が言葉に詰まると、すかさず「それにしても、急な変更は大変ですよね」と横から助っ人が・・・

 こうした大メディアが狙っているのは、既得権益の確保です。長いですが、以下に「産経」「読売」「毎日」の社説を全文引用します。

************************************
【主張】次官会見禁止 「情報統制」が懸念される(9月18日産經新聞)

 鳩山内閣が各省庁の事務次官が行う記者会見の原則禁止を打ち出し、さっそく17日に予定されていた会見は中止された。幹部職員が担当記者との間で行う懇談なども自粛しており、事実上の情報統制が始まっている。

 これは行政機関への自由な取材を制限するものにほかならず、民主主義社会の根幹である言論報道の自由に反すると指摘せざるを得ない。到底、受け入れられるものではない。鳩山由紀夫首相は早急に改善を図るべきだ。

 各省庁に会見禁止の指示を出した平野博文官房長官は「閣僚が責任をもって記者会見で答える。鳩山政権が政治主導を担う表れだ」と説明している。

 事務次官に限らず外局の長にも適用され、気象庁長官の会見も中止された。気象情報が政治主導の問題と、どうつながるのか不明だが、有無を言わせず一律に情報統制するやり方は、新政権が強権的で官僚主義的な体質を持っているとの印象を与える。

 たしかに「官僚主導」の政治が指摘され、「自分こそが、わが役所の代表である」と言わんばかりの態度で会見に臨む事務次官の例がなかったわけではない。だが原因は、官僚をコントロールできない政治家や政党の側にもあったといえる。

 閣僚が責任をもって、自分が担当する分野の情報や政策についての見解を発信する。そのルールを事務次官との間で確認すれば、あえて“口封じ”をする必要もなかろう。逆に、閣僚の力量不足を隠すためか、役所の中の情報を独占してマスコミや国民の目に直接触れないよう画策しているととられかねない。

 閣僚からも「マスコミの取材の自由を束縛するつもりはない」「事務次官の会見禁止は一つの実験」など、さまざまな意見が出ている。禁止措置は、各省庁に過度な自粛ムードを招いたり、取材拒否の口実を与えたりすることにつながる恐れもある。弊害が大きいことを考慮すべきだ。

 次官会見禁止の前段には事務次官会議の廃止があった。同会議を廃止しても政策案件をめぐる各省庁間の利害調整がなくなるわけではない。新政権は閣僚委員会に担わせる考えだが、会見禁止などの姿勢は政策調整や意思決定の過程を見えなくする。政権交代により政治の透明化を求めた民意とは、かけ離れている。
************************************

官僚会見禁止 政治主導をはき違えてないか(9月18日付・読売社説)

 鳩山新内閣が、閣僚懇談会で「府省の見解を表明する記者会見は、大臣等の『政』が行い、事務次官等の定例記者会見は行わない」ことを申し合わせ、各府省に通達した。

 官僚トップの事務次官など、府省幹部の公式記者会見は、担当行政にかかわる専門的なテーマについて、見解をただす貴重な機会になっている。

 鳩山内閣が「官僚依存」の政治を「政治主導」へと転換させていくことに異論はない。

 しかし、その名のもと、報道機関の取材の機会を制限し、国民の「知る権利」を奪うのであれば、容認できない。官僚会見の禁止に再考を求めたい。

 新内閣が官僚の記者会見禁止を打ち出したのは、各府省の幹部が会見を通じて、政策を方向付けたりすることは許さない、という意思表示と言えよう。

 申し合わせでは、政策の立案・調整・決定は、「政」が責任を持って行い、「官」はこれを補佐すると強調している。この政官関係は、当然のことである。

 だが、そこで「事務次官等」の会見まで禁止するのは、明らかに行き過ぎだ。「等」がどこまでを指すのかも判然としない。

 「専門性その他の状況に応じ」、大臣の判断で官僚会見も行うとしているが、基準があいまいで、各府省で混乱を生じている。

 各府省には、国民に知らせるべきことが数多くある。インフルエンザや災害の発生状況など緊急を要する問題もある。こうした記者会見を「政」が一手に引き受けるのは、非現実的だろう。

 肝心な政策問題も、大臣、副大臣、政務官らが詳細を掌握し、説明を尽くせればよいが、実際に可能なのかどうか疑問は残る。

 今回の通達で懸念されるのは、官僚が萎(い)縮(しゅく)し、国民に必要な情報の開示に消極的になることだ。通達を盾に会見を拒み、不祥事などを隠蔽(いんぺい)する恐れもある。

 そもそも、行政機関は、常に国民からよく見える存在でなければならない。報道機関は、国民に代わって行政機関を監視する役割を担っている。

 記者会見を制限し、政策決定過程の透明性が低下することになれば、新政権の掲げる「官僚支配打破」にも反することになろう。

 申し合わせでは、「政」と「官」は、役割分担に基づいて、国家国民のために職務を遂行する、としている。それならば記者会見も、それぞれ役割を分担して実施すればよいはずである。
(2009年9月18日01時31分  読売新聞)
***************************************
社説:鳩山政権の課題 「会見禁止令」 政治主導の看板が泣く(9月19日毎日新聞)

 鳩山新政権が順調に滑り出した。各閣僚の記者会見も意欲的な政策表明の場になっている。ただし、各省事務次官らに対する記者会見の原則禁止措置はいただけない。むしろ、政治主導に逆行する恐れがある。

 禁止令は、閣僚懇談会での「事務次官等の定例記者会見は行わない」との申し合わせとして政権発足の16日に各省に通達された。これが取材の現場で混乱を生じさせている。17日には、気象庁が長官の定例会見を中止、外務省はニューヨーク国連代表部の高須幸雄大使の会見まで中止させた。このほか、省庁や地方の出先機関が一斉に会見を自粛するなど官側の過剰反応と思われる事態が続出している。災害に関する専門的情報、外国に対する発信まで一律に封じるのはいかがなものか。

 新政権の眼目は、官主導から政治主導への転換である。霞が関の官僚軍団が情報と権限を独占し国益より省益護持に走っている現状を克服、政治が民意を背に一段高い立場から官僚をコントロールし国民益を図ろう、という路線は正しいし、国民から圧倒的な支持を受けたことは選挙結果が物語っている。

 ただ、そのことと官僚が持っている情報を国民にどう開示していくか、という問題は別である。多分、官僚が自分たちに都合のいい情報だけを流すことを警戒した措置であろう。官僚が会見などの場を持ってこなかった英国方式を取り入れた、とも聞く。

 だが、逆も真なり、で、政治が自らのフィルターを通しただけの情報提供には抵抗がある。何もすべて英国をまねする必要もないだろう。新政権がこういった情報を駆使して政策決定していくことと、その政策決定過程を透明度の高いものにしていくことは、セットとして考えるべきだ。国民の支持があって政治主導が成立する。そのためにも、官僚からメディアに情報提供されるルートをあえて切断する必要はない。さまざまな角度からの情報があるからこそ、物事が立体的に見えるからだ。

 この問題については、新政権側からも収拾の動きがでてきた。18日、鳩山由紀夫首相が閣僚からの指示があれば事務次官会見も認める、と新たな指針を示した。もちろん、メディア側も情報の受け皿としての既得権に甘えるつもりはないし、官僚の情報を垂れ流しにしてきた、という批判があるのも承知している。ただし、ここは正々堂々たる真の政治主導を実現するための重要な局面である。民主党の持つ情報公開力こそが政権交代につながった、ということを改めてかみ締めてほしい。
************************************

 鳩山政権が当所掲げた「記者クラブの廃止」は、記者クラブ側の強烈な反発によって骨抜きになりました。岡田外相などの閣僚が会見をオープンにしていますが、当初の方針からははっきりした後退です。この記者クラブの問題については、大メディアは全く論評していません。「次官会見の廃止」よりもずっと大きなテーマだと思うのですが、大メディアには「触れられない」事情があるのです。

「国営放送」であるNHK以外の日本の大メディアは、ほぼすべてが新聞社系に分かれています。ご存知だとは思いますが、簡単にまとめると(順序は東京でのアナログ波のテレビのチャンネル順)

● 読売新聞/日本テレビ(4):終戦直後は比較的リベラルな方向に向かうかと思われましたが「読売争議」を経て、大政翼賛体制に向かいました。現在では「政治好き」の渡辺社主が連日政治家と飲み歩くという関係で自民党べったりになり、政策的には自民党の広報紙的な記事が目立ちます。民主党が政権を取って最近は「スリより?」とも思える記事がちらほらと。今回の衆議院議員選挙では、「自民党の広報紙」として連日民主党批判を繰り広げました。
● 毎日新聞/TBSテレビ(6):最も長い歴史がありながら部数減などによって2度の会社改革(倒産、とも言う)を乗り越えた毎日新聞ですが、かつての「三大新聞」の面影はありません。しかし部数が減り給与が下がったことが社内を流動化させたことも事実で、一時は「スクープか大誤報か」という記事を連発していました。70年代からは政権批判に見られる記事が多くなりましたが、一方で聖教新聞の印刷を請け負っていて公明党批判が書けない、皇室記事に熱心、などの面も。
● 産經新聞/フジテレビ(8):「産業経済新聞」の名前の通り、財界が財界にとって都合のよい報道をする報道機関を持つために設立された新聞社。もちろん「儲けること」がその使命である企業よりの報道がメインで、小さな政府、自由競争社会、軍備拡張が(表裏の)社是。フジテレビも「視聴率が高くて儲かることが良いこと」という姿勢が一貫しているのはご存知の通り。
● 朝日新聞/テレビ朝日(10)「アカヒ」と呼ばれ、右翼には「非国民新聞」の代表格のように言われていますが、そんな根性があるメディアではありません。記事や社説は、毎日や東京の方がずっとリベラル、政府批判色が強い。読売の記者と話をすると「大読売の記者」という感じの雰囲気がして嫌になるのだが、朝日の記者は「おれは朝日だ、偉いんだ」というエリート臭を感じることがあって気持ちが悪いことがあります。もともと自民党政権には批判的で、昔は「朝日の購読者はインテリ」というイメージがありました。もちろん、欧州にあるようなクオリティーペーパーからはほど遠いものです。
● 日経新聞/テレビ東京(12)日経新聞の記事の大半は「企業からの情報垂れ流し」です。細かい経済記事が山のようにありますが、ほとんどは記者が「ご用聞き」よろしく企業に日参して(ないしは企業から)もらったものです。あまり言われていないのですが、そういう理由(企業が観測気球を上げたものもそのまま記事になるから)で、結果的な誤報が非常に多い。WBSは私もよく見ていますが、財界の評点が高いのも納得です。

 日本の大マスコミには真のジャーナリズムは根付いていません。読売のように自らが政治に深く関わっているものはともかく、その他の大新聞も「?」がつくものばかりです。その典型が「記者クラブ」とそれにもたれかかった取材です。

 古い話ですが、1974年に立花隆氏が文春に「田中角栄研究」を発表したとき、大メディアの記者は「そんなことは俺たちも知っていた」と嘯いたそうです。知っていたにもかかわらず書かなかったのは、政権与党や政治家と記者に癒着があったからです。こうした癒着の原点にあるものが記者クラブなのです。

 大メディアは記者クラブの廃止に強力に抵抗しています。それはメディア側が言っているような「情報の途絶」を恐れているからではなく、「情報の独占」を失いたくないからです。このあたりの議論は「記者クラブ」で検索をかければいくらでもでてきますのでご覧下さい。

 こうした事実を知っていると、次官会見の廃止に対して産経から毎日までが歩調を合わせて非難している構造が見えてきます。毎日などは「もちろん、メディア側も情報の受け皿としての既得権に甘えるつもりはないし、官僚の情報を垂れ流しにしてきた、という批判があるのも承知している。」と述べながら、次官会見の廃止を「情報閉鎖」にすり替えているのです。

 次官会見を廃止する意味は、政治家が主導をとって政策立案をすることに対して、官僚側がマスコミを使った妨害工作を行なわせないことにあります。これまでの記者クラブ主導の会見では、本当に自民党(自公連立)政権にとって都合の悪い質問は避けてきました。ですから、外国人記者クラブの質問の方が鋭いことが多かったのです。民主党が本当に情報公開をするのであれば、記者クラブを即時廃止し、官僚が「親しい記者」を集めて会見をすることを厳罰をもって禁ずるべきです。政権にとって都合の悪い質問は、政治家に対してバンバンやればよい。そして、それができるのは「ジャーナリスト」としての気概を持つ、大メディア「以外の」記者しかいないのです。

 この項の最後に、毎日の社説を取り上げておきます。ここに見られる「進取の気概」を、自らの姿勢にも当てはめてほしいものです。

***********************************
社説:鳩山政権の課題 八ッ場ダム中止 時代錯誤正す「象徴」に(毎日新聞)

 民主党の政権公約通り前原誠司国土交通相は、群馬県の八(や)ッ(ん)場(ば)ダムの建設中止を表明した。23日に建設予定地を訪ね、意見交換会を開く方針だ。計画から半世紀以上、住民を翻(ほん)弄(ろう)し苦しめてきたことを謝罪するとともに、中止の理由について意を尽くして説き、不安を取り除くのは政治の責任である。そのうえで、時代にあわない大型公共事業への固執がどんな問題を招くかを広く知ってもらい、こうした時代錯誤を終わりにすることをはっきり示す「象徴」としてほしい。

 治水と利水を兼ねた八ッ場ダム計画は、1947年の台風による利根川決壊で浮上した。吾妻川沿いの温泉街をはじめ340戸の水没が前提で、首都圏住民のための犠牲を強いられる地元に激しい反対運動が続いた。苦渋の末、地元が同意に傾いたのは90年代に入ってからだ。時間がかかったため事業費は当初の2倍以上の4600億円に膨らんだ。

 この間、首都圏の水需要は減少傾向にあり、洪水対策としてのダムの有効性に疑問が示された。しかし、そもそもの目的が疑わしくなり、悪影響が指摘されながら完成した長良川河口堰(ぜき)、諫早湾干拓、岐阜県の徳山ダムを追うように、ダム湖をまたぐ高架道路、移転住民のための用地造成などが進み、ダム本体の着工を残すだけになった。まさに「いったん動き出したら止まらない」大型公共事業の典型である。こうした中で、公共事業の全面的な見直しを政権公約に掲げた民主党が政権を握った。八ッ場は最初の一歩である。

 これに対して利水・治水のため建設費を負担してきた1都5県の知事は「何が何でも推進していただきたい」(大澤正明・群馬県知事)などと異論を唱えている。すでに約3200億円を投じており、計画通りならあと約1400億円で完成する。中止の場合は、自治体の負担金約2000億円の返還を迫られ、770億円の生活再建関連事業も必要になるだろう。ダム完成後の維持費(年間10億円弱)を差し引いても数百億円高くつく。単純に考えれば、このまま工事を進めた方が得である。

 だが、八ッ場だけの損得を論じても意味はない。全国で計画・建設中の約140のダムをはじめ、多くの公共事業を洗い直し、そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コストと考えるべきなのだ。「ダム完成を前提にしてきた生活を脅かす」という住民の不安に最大限応えるべく多額の補償も必要になるが、それも時代錯誤のツケと言える。高くつけばつくほど、二度と過ちは犯さないものである。
**********************************

2009年9月 8日 (火)

本日の「怒」090908/目的のためなら道理が引っ込む・・・


 昨日の産経社説の問題の答です(苦笑)。民主党政権を誹謗するためならなんでもありの産經新聞、絶好調。

****************************
【主張】小沢幹事長 統治責任を共有している
2009.9.5 03:36 産經新聞

 民主党の鳩山由紀夫代表が新政権での党幹事長に小沢一郎代表代行を起用したことは、衆院選を圧勝に導いて政権交代を確実にした功績を評価し、官邸入りする自分に代わって、党や国会の運営を委ねたといえる。

 来夏の参院選勝利に向けて、小沢氏の剛腕に期待しているのだろうが、政権運営に事実上、2つの「司令塔」が生まれることを意味する。小沢氏は「私は基本的には政策にも組閣にもかかわらない」と約束したようだが、幹事長である以上、法案の成立などの責務を担う。日本の統治責任をきちんと果たす使命がある。その意味で小沢氏は政策決定メカニズムに積極的に関与すべきだ。
*********************************

→ まず、ここで都合のよい「定義」をします。これは、扶桑社の教科書でもしばしば登場する論理の組み立てです。「幹事長である以上、法案の成立などの責務を担う」。確かに、国会で法案を通すのは与党の力です。しかし、小沢氏が「かかわらない」と言っているにもかかわらず、「幹事長なのだから」「政策運営に関わるのだから」「2つの司令塔が生まれる」という論理展開をしています。

 こうした論理の展開を行なうのは、「なんらかの結論を強引に導くための手段」です。

 以下の文章は、数年前に扶桑社の社会科のテキストが公表されたとき、「公民」の教科書に対して書いた問題点のひとつですが、産経社説と同じ論理構造になっていることがわかります。

**************「危険な教科書/思考力を奪う」から引用********

 論理構成も、巧みに自分たちの主張を補強するように書かれている。ディベートなどでよく使われる手法だが、基本的には「自説を押し通 すための非論理的な方法」でしかない。基本的な構造はこうだ。

 1)言葉の定義を「都合よく」おこなう
 2)その定義に沿った問題点を提示する。この段階では、言うことはまともにみえる。
 3)それに対する自説を唯一の方法として提示する

 例を挙げよう。序章の中に「高度な近代化に国はどうかかわるのか」という項があり、その最初に「国際主義」という小タイトルがついている。以下がその記述だ。1)の言葉の定義のステップだ。

**************引用部分*********************************
国際主義 近代化が高度なものになっていくにつれて、現代人の生活はますます国際的傾向を強くしている。それは、民主主義の考えが、異なった国の人たちとの間の平等という価値を生み出し、また、産業主義の中心に技術による効率性という考え方があるため、国の違いをこえて同じようなものが生産され、生活スタイルが類似していくからである。(改行)実際、現代では、人、モノ、情報、カネの国境を越えた動きがかつてなく高まっている。結果 として、国家間の関係、つまり国際関係がますます深まりつつある。この傾向は今後ますます加速されると予想され、これを「国際主義」とよぶならば、現代は、「民主主義」と「産業主義」に加えて「国際主義」の時代だといってよい。
********************************************************

 ここで、「国際主義」という言葉を定義している。まず、この定義自体が滅茶苦茶なものだ。大辞林の国際主義の項と比べてみる。

**************引用部分(大辞林より)*********************************
こくさいしゅぎ 【国際主義】 (1)独立した主権国家の存在を前提に、その相互間の協調や連帯を重んずる立場。 (2)すべての民族の民族自決権を保障し、国際的に民主主義を実現しようとする立場。 (3)社会主義運動や労働運動などにおいて、国家の枠を超えて共通の目的のために連帯しようとする立 場。 
******************************************************

 比べてみるとわかるとおり、「internationalism」から作られた「国際主義」という言葉を「貶める」ために、まず自分勝手な定義をしている。この言葉が本来持っている、「国家間の協調」「自国主義に陥らないこと」「相互に立場を認め合う姿勢」という観点を欠落させ、単なる「ボーダレス」の意味に用いている。そして巧妙にも、「国際主義とよぶならば」という記述をいれることで、「定義がおかしいじゃないか」という批判に対して、「いや、これはここで使われる国際主義の意味であって、一般 的な言葉の定義を説明したのではない」という逃げ道をも作っている。

 この言葉をこのように定義し、その定義に基づいて問題点を作り出し、それを指摘する。2)のステップである。3ページあとの「現代社会の病理」という項でこのように取り上げられている。

**************引用部分(白表紙本)*********************************
国際主義の限界 さらに国際主義についていえば、それが過度におよぶと、それぞれの国がもっている国民性、および国民性をつくり上げているその国の歴史に基づく独特の文化を崩壊させかねない。(改行)世界に共通 する政治および経済の基準であるグローバル・スタンダード(世界基準)は、強い国の流儀(やり方)を弱い国に押しつけるという結果 をともないやすい。本来、互いの違いを認めつつ相互交流をはかるという国際主義が、世界中のあらゆる社会を均一化しようとすることを目指す「グローバリズム(世界的一体化)」と理解されたとき、その国の独自の物質と精神の両面 にわたる歴史的な遺産を破壊し、国の基礎をなす国民性を薄めてしまいかねないのである。 
******************************************************

 さて、これをお読みになってどう思われるだろうか。まず、この記述は完全に自己矛盾を起こしていることに気づかれただろう。「本来、互いの違いを認めつつ相互交流をはかるという国際主義」という「まともな」定義を見せ、「世界中のあらゆる社会を均一化しようとすることを目指す「グローバリズム(世界的一体化)」と理解されることを恐れる記述をしながら、このテキストはみずから「国際主義」の定義を「世界中が均一化すること」として利用しているのだ。私がこの部分を理解するのに、まる一日を要した。というより、未だに理解していない。論理が破綻しているからだ。

 しかし、生徒はこのようには読まないだろう。順番に読んでいくときに、「国際主義」とは、「均一化」という定義が与えられ、その問題点を理解しようとするだろう。

 そして最後に、自説を展開する。

**************引用部分(白表紙本)*********************************
回顧と展望 このように現代人は、高度な近代化から多くのものを得ると同時に、その病理にもむしばまれつつある。民主主義、産業主義、国際主義にどっぷりつかってしまうと、たしかな価値観や倫理観が見えにくくなってしまう。また、自分の今いる場所を、過去への回顧と未来への展望の中に位 置づけることができなくなってしまう。(改行)「公民」とは、ただ「私」の利益や「私」の好き嫌いの世界に安住するのではなく、その「沙汰し」が属している国の歴史と文化をふまえて、「私」の属する国の未来への展望をもとうとする「市民」のことをさす。(改行)そして、この高度に近代化した社会の中で「よく生きる」には、人は「公民」としての自覚を欠くことはできない。21世紀の文明における最大の課題は、各国民が、自分たちの歴史に基づきながらも、他国民にも理解することのできる公民的な性格を、いかに身につけていくかという点にある。
******************************************************

 この部分を読んで、私は吐き気がした。一昔前の「道徳」のテキストよりしまつがわるい。「他国民にも理解することのできる」と書きながら、「私の属する国」への忠誠心を要求している。しかも、そのまえにさんざん「国際主義」の悪口を聞かされている生徒たちは、ここをどう読むだろうか。もちろん、それが計算されたものであることは間違いない。

 著者が、「論理思考のなさ」を批判されることも恐れずに読む生徒にある価値観を植え付けようとするスタンスに立っているこのテキストの記述の、ある意味で典型的な例として取り上げた。このような記述は、いたるところにある。その全部を引用することは困難だし必要性も感じないが、これをお読みになってどう思われるだろうか。

 こういった「勝手な定義」と「都合のよい論理の引き回し」は、このテキストの初めから終わりまで一貫している姿勢である。特に、戦後の民主主義を支えてきた思想をに立脚した言葉やinternationalismに裏打ちされた言葉などにたいする敵愾心は、尋常ではない。
**************引用ここまで********************

 話を戻しましょう。こうして、小沢氏を「政策を進める司令塔のひとり」と勝手に決めつけ、その小沢氏に対して「政策を進める司令塔なら国家像を明らかにしろ」と迫ります。

************社説、続き************
 問題は、小沢氏が日本をどうするかの国家像をほとんど説明しないことにある。積極的な憲法改正論者であったが、最近は封印している。アフガニスタンでの平和協力に関しても、武力の行使を含め国連の活動に参加する意向を一昨年秋に示したが、それらは党内の合意にはなっていない。

 こうした内政外交の懸案にどう対応するかを明確に語り、鳩山氏と調整する必要がある。それを透明化しない限り、「二重構造」という批判はつきまとう。
*********************************

→ このように、言葉や立場を勝手に「定義」すれば、どんな結論でも導くことができます。最初に「結論」が決まっているのですから、その道筋にあうように定義を「改ざん」すれば良いからです。


************社説、続き***************

 民主党の政権構想の柱である首相直属の「国家戦略局」は、国家ビジョンや予算の骨格を策定する政策決定の司令塔だ。鳩山氏は「政策決定はすべて政府の中でやる」と、二元体制にはならないことを強調するが、政権の統一意思を明確に示すには、小沢氏も国家戦略局に入れて責任を共有する形を検討すべきだろう。公約である「内閣の下での政策決定の一元化」との整合性も図れる。

 衆院で絶対安定多数を得たとはいえ、年度途中で補正予算を見直し、関連法案を成立させるのは、かなりの力業となる。鳩山氏は実質的に政権基盤の多くを小沢氏に依存することになるが、重要なのは「鳩山-小沢」体制が現実路線に立って国益を守る政治を行うかどうかである。これまで小沢氏は党内左派グループと連携してきたが、国益重視路線に立つかどうかを語らなくてはならない。

 西松建設の違法献金事件に関する小沢氏の説明責任は不十分なままで、逮捕・起訴された公設秘書の公判も控えている。鳩山氏も自らの虚偽献金疑惑をぬぐえていない。同党の自浄努力をどう示すかも小沢氏の課題だ。
*****************************

 産経の目的は、「小沢氏が内閣の政策決定過程に深く関わっている」状態を作り出すか、ないしは「小沢氏は政策に深く関わっている」というイメージを植えつけることです。それに成功すれば、二つの意味で民主党を叩くことができるからです。

 ひとつは、「ゼネコンに仕事を斡旋して見返りに献金を受けるような政治家が政策決定をするとは、自民党の悪い部分と同じであって、民主党も腐敗している」と言えること。

 もうひとつは、そもそも民主党を作った鳩山、菅両氏が中心になって政策をリードするのではなく、そこに基本的な主張に差がある小沢氏を一緒にすることで「民主党は政策の統一がない」と言えること、です。

 こうした主張は、読売社説でも顕著です。引用はしませんが、こうした「自民党が政権を担ってくれなきゃこまっちゃう」マスコミが、これからもあらゆる手段を使って民主党政権を貶めようとするでしょう。

2009年9月 7日 (月)

本日の「怒」090907/またまた面白い社説が・・・


 産経の社説を書いている方は、論理とか思考回路とかをお持ちでないようです。

 今日は問題。「この社説の論理的問題点を指摘せよ」

 ヒントは、「扶桑社の教科書とそっくり!」です(笑)

****************************
【主張】小沢幹事長 統治責任を共有している
2009.9.5 03:36 産經新聞

 民主党の鳩山由紀夫代表が新政権での党幹事長に小沢一郎代表代行を起用したことは、衆院選を圧勝に導いて政権交代を確実にした功績を評価し、官邸入りする自分に代わって、党や国会の運営を委ねたといえる。
 来夏の参院選勝利に向けて、小沢氏の剛腕に期待しているのだろうが、政権運営に事実上、2つの「司令塔」が生まれることを意味する。小沢氏は「私は基本的には政策にも組閣にもかかわらない」と約束したようだが、幹事長である以上、法案の成立などの責務を担う。日本の統治責任をきちんと果たす使命がある。その意味で小沢氏は政策決定メカニズムに積極的に関与すべきだ。
 問題は、小沢氏が日本をどうするかの国家像をほとんど説明しないことにある。積極的な憲法改正論者であったが、最近は封印している。アフガニスタンでの平和協力に関しても、武力の行使を含め国連の活動に参加する意向を一昨年秋に示したが、それらは党内の合意にはなっていない。
 こうした内政外交の懸案にどう対応するかを明確に語り、鳩山氏と調整する必要がある。それを透明化しない限り、「二重構造」という批判はつきまとう。
 民主党の政権構想の柱である首相直属の「国家戦略局」は、国家ビジョンや予算の骨格を策定する政策決定の司令塔だ。鳩山氏は「政策決定はすべて政府の中でやる」と、二元体制にはならないことを強調するが、政権の統一意思を明確に示すには、小沢氏も国家戦略局に入れて責任を共有する形を検討すべきだろう。公約である「内閣の下での政策決定の一元化」との整合性も図れる。
 衆院で絶対安定多数を得たとはいえ、年度途中で補正予算を見直し、関連法案を成立させるのは、かなりの力業となる。鳩山氏は実質的に政権基盤の多くを小沢氏に依存することになるが、重要なのは「鳩山-小沢」体制が現実路線に立って国益を守る政治を行うかどうかである。これまで小沢氏は党内左派グループと連携してきたが、国益重視路線に立つかどうかを語らなくてはならない。
 西松建設の違法献金事件に関する小沢氏の説明責任は不十分なままで、逮捕・起訴された公設秘書の公判も控えている。鳩山氏も自らの虚偽献金疑惑をぬぐえていない。同党の自浄努力をどう示すかも小沢氏の課題だ。
*****************************

 答はまた明日。

2009年7月28日 (火)

本日の「怒」090728/「若者よ藍ちゃんに続け」ったって、どうやって?


 選挙の話ばかりでも・・・というわけで、久々に「産経社説ネタ」です。

***********************************
【主張】藍ちゃん初V 困難に挑戦する若者続け

 「藍ちゃん」の愛称で親しまれるプロゴルフの宮里藍選手(24)が、米女子ゴルフツアーのフランス開催試合をプレーオフの末に制した。
 家族と離れて単身生活を続け、国内より格段にレベルの高い米女子ツアーで初勝利の宿願を果たした。宮里選手の快挙をたたえたい。
 「決して遠回りではなかった」という、初勝利までをふり返った宮里選手のコメントには実感がこもっている。
 4歳の時からゴルフを始め、アマチュア時代に国内ツアーで初優勝して、史上初の高校生プロゴルファーとなった。順調にツアー勝利を重ね、同年代の横峯さくら選手(23)らとともに女子ゴルフ人気を飛躍的に高めた功績は大きい。しかし、2006年に米女子ツアーに参戦してからは力不足の印象がぬぐえなかった。
 155センチ、52キロの宮里選手は、欧米選手の中に入るとひと際小柄に見える。「天才少女」とうたわれた経歴から常にメディアに騒がれ、「いつ初優勝するか」とプレッシャーがかかる。それに異郷でのひとり暮らしは孤独である。
 数々のハンディを克服した秘密は、米国でプレーを続けたいという挑戦の精神と、不断の努力で磨いた正確なショットやパットにあるだろう。
 米女子ツアー資格で出場した日本人選手の優勝は樋口久子・現日本女子プロゴルフ協会会長を含めて6人目だが、宮里選手は史上最年少だ。日本の若者への励ましとなった点で大きな意義がある。
 スポーツ以外の分野でも海外で活躍する日本人の若者は少なくない。最近では、米テキサス州で開かれた第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで目の不自由な辻井伸行さん(20)が日本人で初めて優勝した。海外で花開いた才能の一例である。
 ところが、最近の日本の若者は全般に「海外に出たがらない傾向が強い」と聞く。海外出張さえ尻込みしがちだという。留学生数も中国やインド、韓国に比べると少ない。失敗を恐れず困難に挑戦する気概の欠如が気がかりだ。
 宮里選手の快挙が上田桃子選手(23)ら現在米女子ツアーに参戦している他の選手や、先日全英オープンに挑戦した男子プロの石川遼選手(17)に刺激を与えるのは間違いない。さらに分野を超えて海外で強い日本人をはぐくむ「藍ちゃん効果」を期待したい。
***********************************

 この産經新聞の「まともにものを考えられない主張」、好きです。とにかく、ネタに事欠きません。

 藍ちゃんの活躍や、辻井さんがコンクールで優勝したことは素晴らしいことですし、勇気づけられる若者もいるでしょう。しかし、そんなことを新聞で主張してどうするのでしょうか? 誰もが小さい頃から英才教育を受けられる環境にある訳ではないのです。いや、藍ちゃんや辻井さんのような「恵まれた」環境にある人の方が、圧倒的に少ないはずです。

 メディアが矜持と自覚を持っていれば、「若者が活躍できる社会を!」というテーマになるべき話題です。というより、この新聞は、恵まれた環境にある人にしか向けていないのでしょう。そのうち、「環境が恵まれないのは努力が足りないからだ」とでも言い出すのではないかと「期待」しています(爆)。

・・・と、ここまで書いたら、すでにそういう記事があることがわかりました(笑)

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090727/trd0907270800004-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090727/trd0907270800004-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090727/trd0907270800004-n3.htm

 長いので引用しませんが、さすが、産経です。一見すると「学歴格差社会」に対する危機を表しているのかと思いますが、よく読むとこの記事の意図が見えてきます。

「働かない親を見て勉強しなくなる子どもは犠牲者」「親が中退しているから子どもにもきちんと進学させない」「受給日が給料日」・・・

「生活保護を受ける人たちは怠け者」的なこの発想、まさに、産経の真骨頂です。アメリカのエリートの中には「成功しないやつは努力をしていないからだ」と決めつける人が多いのですが、この「強者の論理」を実践しているのが産經ですね。働きたくても働けない人がいることを想像することができない。「生活保護を受けている人=学歴のない人」という固定観念から脱せない。そしてそういう社会を問題にするのではなく、「社会的な差別構造を保存するために」社会的弱者が「弱者であるゆえん」を、個人の責任にしてしまう。それはすなわち「成功者を良い人とする」意識の裏返し、すなわち「強者のための社会を肯定する」ことに他なりません。

 しかし・・・いつも思うのですが、こういう記事を書いている人の精神構造って、どうなってるんでしょうね。

2009年5月13日 (水)

本日の「怒」090513/ここまで見境いがないとジョークにもならない、読売新聞のヨイショ記事


 たびたび取り上げていますが、自民党の政権落ちの危機感からか、渡辺新聞の自民党への援護射撃がとまりません。補正予算のバカバカしさを取り上げようと思っていたら、こんな社説が目に入りました。「あの」産經新聞ですら取り上げていないものです。

*******************************
マンガ産業 国際化時代の戦略が必要だ(5月10日付・読売社説)

 今年は、マンガ界にとって一つの節目と言えるだろう。
 戦後のマンガ黄金時代を生み出す契機となった少年週刊誌「少年サンデー」「少年マガジン」が創刊から50年を迎えた。
 それを祝う会で、あいさつに立った漫画家の藤子不二雄(A)氏は、「マンガがこんなに大きくなるとは思わなかった」と語った。
 日本のマンガが、アニメなどと共に世界の若者の間にブームを巻き起こすことなど、想像もつかなかったということだろう。
 しかし、世界の頂点に立ったと言われる日本のマンガは、新たな課題も抱えている。
 出版科学研究所がまとめた昨年のコミック全体の推定販売金額は4483億円で、1995年の5864億円をピークに、ほぼ毎年減少し続けている。
 背景には少子化がある。団塊ジュニア世代が成人期に達した90年代半ば以降、子供の読者層は先細りとなりつつある。
 インターネットやゲームなどの普及により、娯楽が多様化しつつあることも要因と見られる。
 今後は、新たな読者層の獲得に向けて、時代に見合ったビジネス展開や振興策が大きな課題になろう。すでに出版各社では、国際展開やネット事業も進めている。
 日本マンガの本格的な海外普及は80年代後半の米国進出から始まっているが、最近、出版事業の拠点はヨーロッパや中国にも広がりつつある。
 米国の読者向けに、日本の少年誌に連載中の一部のマンガをインターネットで無料で配信するサービスも始まった。
 日本のマンガを素材にして実写化したハリウッド映画なども制作されるようになった。
 売り上げは減少しつつあるが、日本マンガの質は高く、強い国際競争力を維持している。
 外務省主催の「国際漫画賞」には、昨年世界46の国と地域から368作品が寄せられた。
 マンガを学ぶために日本の大学に入る留学生も増えている。
 しかし、日本のマンガの収集・保存や研究に取り組む研究機関はまだまだ少ない。
 文化庁は、国際拠点として国立メディア芸術総合センターを建設する方針で、今年度補正予算案に盛り込んだ。アニメやゲームなども紹介する施設だが、資料収集機能も充実させるべきだ。
 マンガを日本文化の一つとして世界にアピールするため、様々な方策を考えていく必要がある。
********************************

 この記事を書いている論説委員は、本気でこれを書いたのでしょうか。もし本気だとしたら、せめて毎日、他紙を読むことをお勧めします。世の中が今どうなっているか、少しは自分の目で見た方がいい。どう考えてもまともな神経ではありません。仮に、この計画を打ち上げたのが民主党だったら、読売新聞はどう反応したでしょうか。「税金の無駄遣いだ」と大騒ぎしたに違いありません。

 麻生マンガ首相肝いりのこの計画、09年度補正予算では120億もの金額が計上されています。

 一方で、今日の朝日新聞には、生活保護世帯の母子加算の廃止についての記事が出ていました。これまでもさんざん報道されてきたことですが、「就労支援」の名目で母子加算を切り捨てたために、病気などで働くことができない母親が困窮している問題です。各地で母子加算の切り捨てによって「最低限度の文化的生活」をおくることができなくなることを憲法違反として、裁判が起こされています。現代版「朝日訴訟」ですが、この母子加算廃止によって「節約」できる税金は200億。そして定額給付金にかかる事務経費は800億円。

 出てくるのは、溜息ばかりです。

2009年2月20日 (金)

本日の「怒」090220/こんな言葉は使いたくないけど・・役に立たないと本当にマス「ゴミ」ですね


 主に2チャンネルの「ネットウヨ」と呼ばれている人たちが使う言葉に、「マスゴミ」というものがあります。対象は主に「アカヒ」で(笑)、ねつ造を繰り返し、自虐史観を押しつけ、自民党の悪口ばかり書いている、というのがその根拠の一端らしいですが、今回の中川氏、小泉氏の記者会見を見て、政治部の記者がいかに堕落しているかということがよく見えました(わかっていたことではありますが・・・)。

 まずは、読売新聞の某女性記者です。中川前財務大臣の問題となった昼食に同行した「マスコミ」関係者は、読売新聞の記者1名と経済誌の記者たち。「酒好き」「女好き」で知られている中川前大臣は、食事などに女性記者を同伴させることが多かったそうですが、くだんの読売新聞の記者も「美人記者」として知られています。読売新聞社は、公式には「記者は偶然同席したが、連絡のために席をなんかいも立っており、中川氏の飲酒は目撃していない」と言っていますが、席に戻ってくればワインが減っていることくらいわかります。子どものような言い訳ですね。

 さらに、読売新聞社のサイトにあったこの「美人記者」のプロフィールやレポートが、昨日「こっそり」削除されました。仮にやましいところがないのであれば、なぜ削除したのでしょうか。ネットでかなり騒がれていたようですので、その対策なのでしょうが・・・会長は自民党の実力者と料亭で密談。第一線の記者は財務大臣とワイン付きの昼食。これじゃ、まっとうな報道ができるわけはありません。

 さて、もうひとつ。何をしに行ったのか、小泉元首相がモスクワで吠えました。内容はみなさんすでにご存知でしょう。問題なのは、記者会見。小泉氏は「衆議院の議席は郵政民営化で勝ち取ったものだからそれを変更することは許さない。自分は低額給付金の再議決は欠席する」という気持ちなのでしょうが、ちょっと待って下さい。今まで、3分の2の議席を使って、ペルシャ湾への自衛隊派遣やガソリン税の暫定税率を可決したときには、小泉サン、マッタをかけたんでしょうか。

 小泉氏の発言自体に対する批判は、私なんかが言わなくてもあちこちで噴出してます。それはいいのですが、問題は新聞記者たち。小泉氏の発言の後、どうして「何故、他の問題ではクレームをつけなかったのか」という質問があってしかるべきでしょう。「小泉元首相がこう言った」というだけなら、記者じゃなくてもビデオを廻してテレビでやればいい。政治部の新聞記者には、ビデオより価値があるという「矜持」すらないのでしょうか。

 日本には、「記者クラブ」という奇妙な制度があります。政治部の記者は、如何に政治家に食い込むか(よーするに、取り入るわけですね)が勝負。ですから、都合の悪い質問はしないし、「オフレコ」なんていう奇妙なお約束もあります。私は、「日本には「マスコミ」はあっても「ジャーナリズム」はない」と言ってきましたが、その通りのお粗末な出来事でした。

無料ブログはココログ

最近のコメント

2009年12月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック