本日の「怒」090411/教科書についてあれこれ
最近、教科書関係の報道をしばしば目にします。今日は、さまざまな問題を含んだ扶桑社の教科書が、「作る会」の分裂によって、扶桑社のものとそっくりのものが検定を通過した、という記事がありました(読売新聞090410)。また、先月には、評価がさまざまである「ゆとり教育」を見直す学習指導要綱の改正が報じられました。現場ではさっそく改訂された資料集を使うことろもあり、現在の小学校3年生と4年生が同じ内容(例えば円)を学ぶ状態も生まれています。
これまで報道されて来た議論を見ると、ゆとり教育/反ゆとり教育の主張ともに「学習内容の量的な問題」が主な争点になっているように見受けられます。しかし、近年の教育の問題は「学習量の問題」ではありません。もっと根本的な「子どもたちに教育の現場が何を伝えるか」という思想の欠落なのです。
その「欠落」を生んで来た最大の要因が、文部省の方針や指導要綱の変遷であることは明らかです。
例えば「人を殺してはいけない」ということをどのように子どもに伝えるのか。「人を殺してはいけないんだよ」と1000回繰り返して教えても意味がありません。「人を殺してはいけないのだ」と、子どもたち自身が自分で考えるようになることが必要なのです。
こうした「間違い」は、いわゆる「徳育」教育や「愛国心」の問題で顕著です。「日本は素晴らしい国だ、だから愛さねばならない」ということを叩き込んだら、批判に対して正しい対処ができません。うろたえるか、ムキになるか、どちらかしかできなくなります。これは、対日問題に対する韓国や中国の民衆を見れば明らかでしょう。「日本が悪い」とだけ教えられて来たら、日本からの批判には冷静に対処できなくなるのです。日本の無謬主義を唱える人たちは、韓国や中国の民衆のこうした振る舞いには(日本が過去にやったことを無視して)批判を加えますが、やろうとしていることは全く同じだということに気づいていません。
私は、日本という国が大好きです。この地で育まれた文化に誇りを持っています。しかし、それは「自分で語れる」ものです。それが本当の「愛国心」だと思うのです。
今日は、2001年にあるウェッブで書いた教書に対しての問題意識を再掲します。これは「ゆとり教育」に踏み出すときの危機感ですが、1970年代以降に繰り返されて来た、教科書の「馬鹿げた」改訂の歴史に対する批判でもあります。今回の改訂についての各種の議論を見ていて、そして若者たちのさまざまな問題を見ていて、もう一度、訴えたくなりました。
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危険な教科書・・・その1/子どもたちの学力・思考力はますます落ちていく
新しい教科書の内容について、現場の、特に理系の教師たちから悲鳴が上がっている。教科書問題というと、どうしても歴史教科書の問題に目が行きがちだが、この問題以上に恐ろしい問題を含んでいることに、子どもたちの思考力を成長させない方向へ教科書が変化しつつある、という問題がある。
【自分で判断するという力について】
歴史や公民の教科書の問題も一大事だ。これについては別項に譲るが、「この問題以上に恐ろしい」と書いたのには理由がある。教育、特に歴史や価値観を見せるものは、ある種の「洗脳」に近い効果 を持っている。このことは、現状の北朝鮮や戦前の日本を見ればよく理解されるだろう。「洗脳」に対抗するためには、「自分で判断する」能力を養うことが必要だ。この能力を身につけるすべをなくしてしまうことは、文化的・科学的な進歩をも止めてしまうし、「洗脳」に対抗する力を身につけることもできなくなってしまう。ひとたび「洗脳」されたとしても、この能力さえ失わなければ、時間をかけて「洗脳を解除する」ことはできるだろう。しかし、この能力がないと、洗脳の解除が困難になってしまう。
さて、この「自分で判断する」という能力には、いろいろな段階がある。
1)自分の欲求にのみ従って判断する
これはいわば「動物」に近い「判断力」だ。おなかがすいたから食べ物を手に入れる。そのためにはどうするか。経験によって、動物でもいろいろな判断を下す。人間で言えば赤ちゃんの段階だ。「おなかがすいた、お菓子屋さんにはお菓子がある、だからくすねてでも食べる」。もちろん、くすねる「能力」を持たないので、この例は赤ちゃんにとっては実現しないが。大人になってもこの状態に判断能力がとどまっていると、盗むこと、人を殺すこと、強姦すること、などが、自分の中で正当化される。
2)何らかの基準に沿って判断する
人間は成長するに従って、いろいろな「人間関係」や「ルール」を学んでいく。その中で、自分の行動を、何らかの基準に照らし合わせて行うようになる。その基準とは、「経験によって学んだ人間関係」や「教えられたルール」などである。「おなかがすいた、お菓子屋さんにはお菓子がある、だからくすねてでも食べる」、という行動から、こういった「ルールに反する」行動を抑制する「判断力」が生まれてくる。
「芸術は模倣から始まる」という言葉がある。これは至言だと思う。芸術分野で使われているこの「模倣」という言葉は、判断力の発達段階でも同様に考えることができる。他人(成長過程においては「大人」)と同じように行動しようとする時期が子どもにはある。大人の行動に「あこがれ」たり、それを「模範」にしたりする。しかし、その段階では、子どもの本当の「力」を示したことにはならない。芸術も「模倣」にとどまっていては、その芸術家は「芸術家とは言えない」のである。
3)自分の中に価値基準を構築する
これが本来の「判断力」である。自分の中に価値基準を構築し、それに従って自分の行動規範・思考の方向を決めていく、という能力だ。これは同時に、自分の価値基準を「修正する」能力も含む。この点が重要。
学生時代に、いわゆる「民族主義者」と議論をしたことがある。例えば特攻隊について、「彼らは自分の内なる価値基準、すなわち天皇と国家のために自分の身を犠牲にする、という崇高なる判断を下したのだから、それを洗脳呼ばわりするのは間違い。」ということを力説する人がいた。もちろん、この論には、「洗脳とは何か」という決定的な誤りがあるが、なにより注入された価値基準を「批判することが許されない」以上、それは自らが構築した価値基準とは言えない。その点をつくと、「それは時代が判断したことだ」という「横道」に逃げられてしまった。価値基準を作り上げるとき、それは厳正なる事実と多様な見解を比較・検討することが必要だ。それらの見解をそのまま受け入れる場合ももちろんあるだろうが、それも他の見方を体験することで、単なる「真似」からは脱却しうる。
この、「事実を知る」「見方を学ぶ」「価値基準を構築する」というプロセスは、多様な学習を通 して学ぶことができる。そしてその根元にあるのは、「疑問を持つ自由」と「想像する力」である。
【第1の問題点・・・真理・真実を知ることと詰め込みを混同している指導要領】
新しい学習指導要領の基本的なスタンスは、「学校における生徒の負担を軽くする」ということだ。そのために、多くの貴重な資料が削除された。
確かに、受験の負担が学生生活をむちゃくちゃにしている面は大きい。受験のために、5000だ、8000だ、10000だ、という数の英単語を「暗記」し、年号を覚えなくてはならない。いや、そう考えている人が多い(実はそうではないのだが・・・)。受験適齢期になればそういった作業があるから、それまでにやらなくてはならないことは・・・と考えていくと、どうしても早くから学習内容を「消化」することに気持ちがはやってしまう。子どもだけでなく、親や教師もそれに惑わされて、結果 的に子どもたちの負担を大きくしてしまう。そしてそれが、玉突き式に下の学年へと影響を及ぼす・・・そういった弊害の一部分として、「詰め込む」ことの危険性は言えるだろう。しかし、これを解決するための策は別 にある。文部省の方針は、根本的な問題の解決とはほど遠い。それだけでなく、将来の日本を危うくする「亡国の(ああ、なんて言葉を使ってるんだ)」方針だと言わねばならない。必要なことを教えない学校など、何のために存在しているというのか。
大学の理系の先生たちが、入学してくる新入生の学力の低下を大いに嘆いているという。微積分ができないのは当たり前、中には割合の概念すらわかっていない者もいるという。理系でですよ。こんな大学が必要だろうか。(この議論は別 項で)文部省の方針で、さらにこの傾向はひどくなるはずだ。
【第2の問題点・・・好奇心、思考力を奪う改訂】
小学校の教科書で、円周率が3にされてしまったことは、今回の指導要領の改訂のばかばかしさの象徴としてマスコミにもさんざん取り上げられたので、ご存じのことと思う。直径の3倍といえば、正六角形の周囲の長さに等しい。こんな発想がどこからでてくるのか、想像もつかない。
円周率を習った頃を思い出して欲しい。先生は言葉を選びながら、なぜ円周率が3.14なのか説明してくれたはずだ。欄外には、一生をかけて円周率を707桁まで計算した数学者の話と、渦巻き状に描かれた円周率が載っていた。もちろん、小学生に円周率を計算する仕組みなどがわかるわけではないが、「無限」という得体の知れないものに対する興味が、それ以降の学習に対する興味につながるものだった。それに加えて、子どもはなんでも「遊び」や「競争」にしてしまう。円周率を何桁まで覚えられるか、友達同士で競ったものだった。
円周率を3と教えることは、「正確さに著しく欠ける」だけではなく、この、成長期の子どもにとって最も重要な「好奇心」や「想像する力」を養うことの放棄でもある。円周率の登場は、後年悩まされることになる「無限」の概念が初めて登場する、貴重な場であった。意欲のある先生に、無限の概念を感覚的に理解させるために、「直線だけで円をかいてごらん」と課題を与えられた人も多いはずだ。学習意欲をつけるにはどうしたらよいか、という論争を「子どもの成長過程を理解していない」大人が大まじめに議論している姿は、滑稽をとおりこして悲惨ですらある。
記憶する、という作業についても、大きな誤解がある。覚えるものが多いから大変なのではない。その辺にいる小学生にポケモンのキャラクターについて質問してみるとよい。大人がちっとも理解できないことを、まるで「辞書のように」暗記しているのがわかるはずだ。記憶することの「大変さ」というのは、記憶するべきものの量 だけの問題ではないのだ。関心のあるものであれば、子どもはいくらでも覚えていく。教育課程で子どもに示すべきものは、この「関心のあるもの」を増やすことと、「論理的なものなら覚えられる」道筋を示すことなのだ。記憶は、脳の中でのネットワークの構築だ。ただ単に「覚える」場所があって、そこにどんどん放り込んでいく作業ではない。脳のネットワークをいかに効率よく育てていくか、ということが、記憶力に直結する。そのネットワークの一つに「論理回路」を作ってやることが、学校での教育の大きな眼目であるはずだ。
子どもは、何かをなんとか覚えようとすると、あれこれ失敗を重ねながら「自分の覚え方」を身につけていく。先ほどの円周率の話に戻る。私自身は、およそ100桁まで覚えることができた。どうしたかというと、数字にリズムをつけたのだ。
3.1415926535897932384623........
この数字を、3.14 1592 6535 8979 ....というように4桁ずつにわけた。そして一つ目にアクセントをつけて「固まりとして」覚えた。もちろんその当時、こういう「論理的に」考えて覚えようとしたわけではない。いろいろ試行錯誤するあいだに、これがその当時の私にとって、いちばん「楽な」暗記法だったのだ。私の友達の中には、「ビジュアルに」覚えた子もいた。(私は、暗記でその友人に決して勝てなかった覚えがある。彼は、小学校4年生の頃から、歴代将軍の名前、昆虫や植物の名前をたくさん覚えていた。)重要なのは、自分にあった記憶のプロセスを身につけていくことだ。
記憶法がマニュアル化されると、個人の適性や環境が無視される。語呂合わせの年号表などはナンセンスの極みである。その子にとって最も合った記憶法はその子自身が見つけていくしかない。だからこそ、好奇心を養うことが重要になるのだ。
円周率だけでなく、他の多くの分野で、これと同じことがおこなわれている。今回の改訂(前回もそうだったが・・)の最大の問題はここにある。
【第3の問題点・・・論理思考を欠落させる改訂】
心ある数学の先生は、小学校から高校までの教科書を恐らく通読されているだろう。そして、その論理の一貫性のなさに空恐ろしさを覚えるに違いない。
数学が苦手、という子どもが増えてしまった原因が「単元の多さ」「複雑さ」であるかのように議論されている。これは、全くの誤りである。
私は、学校のカリキュラムから全く「落ちこぼれて」しまった高校生に数学を教えた時、自作の教科書をよく作った。それは、「論理的につながるように」書かれている。もちろん、中学の単元、必要とあれば小学校で習うはずのことも盛り込まれるが、基本方針は、「通 読して理解できるようになる」ものだ。必然的に量は多かった。学校の教科書の通りだと、あちこちに「論理の飛躍」が起きてしまうからだ。それを、「これはこういうこと」といって「納得させる」のが現在の数学の教育になってしまっている。わかっていないことを、わも分かっているかのように利用することが当然になってしまった。単元をどんどん減らしていく間に、こんな風になってしまったのだ。
問題は、もう一つある。例えば、「二次方程式の解き方」という項目を考えてみる。「平方根」などの必要なアイテムを理解してもらうことも大変だが、それが「済むと」、「因数分解」か「解の公式」を用いて解かせる。因数分解を思いつかないか、解の公式を忘れればアウトだ。二次方程式を解くことを、解の公式を導く作業の中で徹底的に理解させれば、このようなことは起こらない。その上、高校に上がってからの単元でも、必ず役に立つ。「何かを覚えて当てはめる」ことばかりやらせていると、思考力は育たない。
【第4の問題点・・・批判力を養うことを放棄する学校教育】
理系の分野での問題点は、文系の分野にも当てはまる。「作る会」の教科書についてのコメントは別項に譲るが、他の検定についても大きな問題点がある。
思考力、想像力の根元は、好奇心と批判力だ。知りたいと思う気持ち、おかしいと思う気持ち、と言い換えてもよい。この気持ちが、いろいろなものを「調べたり」「質問したり」する原動力となり、ひいては、思考力、想像力をはぐくむ力となる。これに例外はない。歴史や政治経済(公民)を「ある一面 から」教えることは、このことと正反対だ。「中学生、高校生には難しすぎる」とか、「学説の多数ではない」(この点には「嘘」も含まれているが)等といった理由で、貴重な記述が削られてきた。
日の丸・君が代にしてもそれがいえるだろう。国民として、自分の国を愛し、誇りを持つことは重要だ。しかし、「自分が日本人だから」という理由だけで、日本を無批判に愛するのは誤りである。自分の価値観や信念は、他人の批判に晒されて、それを乗り越えてこそ価値があるものだ。だからこそ、自国に対する批判をしっかり知る必要もある。日本軍はアジアの国々を侵略し、蹂躙した。これは「事実」だ。それを事実として認めることができるからこそ、西欧のアジアやアフリカに対する侵略の歴史を語ることができるのではないか。
同様の理由で、アイヌや琉球に対する記述もとても許容できるものではない。「日本は単一民族国家だ」などといっていては、アメリカのインディオにたいする仕打ちや奴隷制度をなんと言って非難できるだろうか。こういったことをきちんと教えてこそ、歴史に対する真摯な態度をはぐくむことができるのだ。


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