社会/司法

2009年11月10日 (火)

本日の怒091110/それでも死刑について考えてしまう/オウム実行犯の死刑確定を受けて


 オウム真理教の「サリン事件」実行犯、広瀬、豊田両被告の死刑判決が確定しました。被害の大きさや事件の悪質さを考えると、現行法制では死刑判決が覆ることはないだろうと思っていましたが、その通りの結果となりました。

 産經新聞は、遺族が「望んだ判決」を受けての、複雑な心境を報道しています。

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「複雑な心境」遺族や被害者ら会見 オウム2幹部死刑確定
2009.11.6 20:20/産經新聞
 広瀬健一、豊田亨両被告に対する上告審判決を傍聴した遺族らが、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、最終審の判断を受けて、心境を語った。
 「地下鉄サリン被害者の会」の代表世話人で、営団地下鉄職員だった夫=当時(50)=を殺害された高橋シズヱさん(61)は、1審から最高裁まで傍聴してきた。「2人の被告は真摯に裁判に臨んでいた」と振り返った。「被害者や遺族が望んでいた判決ですが、2人は年齢的に私の子供と同じぐらいで、複雑な思いもする。オウム真理教事件の中では、2人は被害者だった」と語った。
 広瀬被告がサリンを散布した地下鉄丸ノ内線で被害に遭い、重度の障害を負った浅川幸子さん(46)と傍聴した兄の一雄さん(49)も「許す訳ではないが、私も人の親。子供が過ちを犯し、判決を受けると考えると悲しい、複雑な気持ちになる」と話した。
 その上で、「被告は拘置所で最低限の保障を受けられるが、被害者は置き去り」と述べた。言語障害が残る幸子さんは「オウム、大バカ」と声を上げた。
 日比谷線で被害に遭った大上雅子さんは、これまで会見などを避けてきた。
 「事件には触れたくなかったが、事件を知らない世代も増えてきたなか、伝えていかなければならない」と、事件風化への懸念を口にした。
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 ネット上に見当たらなかったのですが、豊田被告は拘置所からの手紙で「カルトの恐ろしさ、カルトにそまらないために」という訴えをしていたそうです。その話や他の報道を読んで、この両名に死刑を執行する意味は何だろうとまた考えてしまいました。

 私が学生の頃は、「オウム」ではなく「原理」がキャンパスで跳梁跋扈していました。洗脳された学生が「何も考えられない状態」でまわりの学生と衝突するのを見て、空恐ろしい気持ちを持ったことを覚えています。カルトの恐ろしさは、人間が知的活動をするための基本である「批判力」を奪ってしまうことです。大学、それも「一流」と呼ばれる大学に入学した学生がいとも簡単にカルトの魔の手に落ちてしまうのを見て、人間の弱さを痛感したものでした。

 カルトに限らず一部の政治組織等も、こうした「洗脳」の方法を採ります。疑わずに活動してくれる「兵隊」としては、洗脳された人間は最も「役に立つ」からです。洗脳の方法はいくつかありますが、「恐怖」で支配する構造は同じです。支配されたメンバーは、どんなことがあろうとも「自分の頭で考える」ことを停止してしまいます。いわば「人間でなくしてしまう」のです。こうして、殺人をいとも簡単に犯してしまう「兵隊」が作られていくのです。

 原理の場合でも、洗脳された学生を洗脳から解放するためには、多大な労力が必要でした。何しろ、相手は最初から外の人間の言うことを「聞かない」のです。普通の議論が成り立つはずもなく、いくら論破しても最後は「お前は悪魔だからそんなことを考えるのだ」でおしまいになってしまうからです。

 残念ながら、こうした「カルト」は手を替え品を替え登場します。まともな頭で考えればインチキ教義だとわかるようなものがほとんどであるにもかかわらず、新しいカルトが次々と若者を「奪って」います。こうした現象が起こってしまう背景にはさまざまな問題がありますが(社会的な閉塞感や教育機関の問題など)、いずれにしても「批判力」を奪ってしまうこうした団体に対しては充分な社会的な注意が必要です。

 広瀬、豊田両被告を死刑に処することは、ある意味で被害者の「溜飲」を下げることになるのかもしれません。私は被害者ではないのでその感情を共有することはできませんが、2人の「オウムの被害者」を死刑場の露としてしまっても、何もならないような気がして仕方がないのです。2人が本当に「気がついて」いるのであれば、生涯を通してカルトの危険性を訴え続けてくれる方がよほど意味があることではないか、と考えてしまいます。

 私が死刑制度に反対しているのは、「冤罪の可能性があるから」という単純なものです。今回の事件は冤罪ではあり得ないようですが、それでも何か重たいものがひっかかっているような違和感を覚えてしまうのは私だけでしょうか。

2009年9月 6日 (日)

本日の「怒」090906/裁判員制度/判決そのものには納得ですが、それでも安易な重罰化の懸念は消えない


 裁判員制度のもとで、初めての性犯罪を裁く裁判の判決が出ました。大きく報道されたのでみなさんもご存知だと思いますが、判決は検察の求刑通りの懲役15年。「8掛けが普通」と言われる刑事裁判では異例の重い判決です。最初のケースで下された判決に続き、これまでの傾向より重い判決が出されました。

 私は、強姦罪などの性犯罪の法定刑はあまりにも低すぎると思ってきました。日本では、刑事政策の方向性として経済事犯に対する刑罰の方が重視され、女性の人格や人間性そのものを否定する強姦罪などは、男尊女卑思想が長い間続いていたこともあって、現実的には比較的軽い刑が果たされてきたのです。性犯罪を立件することも難しく、「そんな格好で夜道を歩く方が悪い」「抵抗すれば防げたはずだ」という議論がまかり通っているありさまでした(今でもまだ続いているとも言えます)。結果として、被害者には一生残る心の傷が残りながら、加害者は3年や4年で社会に復帰できる、という状況が続いてきました。

 強姦罪自体の法定刑の改正や集団強姦罪などの新設などによって、徐々にではありますが性犯罪に対する「罰の軽さ」が改善されてきています。しかし、今回の判決を見て、どうしても消えないいくつかの懸念があるのです。

 そのひとつは、強姦罪の重罰化は刑事政策上の「バランス」で行なわれたというより、近年の「被害者感情の重視」という風潮に流されているのではないかというものです。

 一昔前と違って、犯罪の被害者が堂々とインタビューに応じたり、自らがマスコミを通してその苦しみを訴えることが増えました。このこと自体になんら異議はないのですが、司法制度の中で「どのくらいの刑罰を与えるか」という問題は、被害者感情だけで決められるものではありません。被害者感情で決められるのであれば、同じように人を殺した場合でも、被害者の悲しみによって刑罰が大きく変動するようだと、法的な安定性は保たれません。被害者感情を重視することを訴える人たちは、身寄りのない一人暮らしの人が殺されて被害者感情を訴える人がいなかったら刑罰が軽くてもよいとでも言うのでしょうか。

 刑法にはいろいろな立場や考え方があります。「主観主義と客観主義」「行為主義と行為者主義」などの「対立」は、時代によって、また刑法に対して求められるものの違いによってさまざまに積み上げられてきた思想が反映したものです。何故刑罰を与えるかという根本的な問題でも、「応報刑論」(犯罪行為に対して応報として犯罪者に果たされるもの)「教育刑論」(刑罰は犯罪者の反社会的な性格を改善するもの)などの違いがあります。こうした立場の違いは、社会状況や新しい考え方によってさまざまに吟味されて、現実の刑事法体系や司法制度に反映してきました。

 こうした流れに対して、最近の風潮は、「悪いことをやったのだからやっつけてしまえ」「被害者のことを考えたら犯罪者に人権はない」という単純な発想で重罰化が叫ばれているように感じてなりません。これは、「性犯罪の刑罰が軽すぎる」という問題とは別のことです。刑罰の「量」は、さまざまな観点から判断されるべきものなのです。

 最初のケースも今回のケースも、被告が事実関係をほとんど争っていないという点が共通です。裁判員制度のスタートを無難にこなすために、裁判所が最初は事実関係を鋭く争うような事件を避けたとも考えられます。しかし、これからは更に難しい判断を迫られる事件が増えてくるはずです。

 例えば、犯人が否認しているケースでは、裁判員は「どちらの言い分が本当か」という判断を迫られます。代用監獄で自白の強要がまかり通り、都合が悪くなると証拠の「紛失」や「ねつ造」までしてしまう警察・検察の主張の「嘘」を見抜かなければなりません。そして、冤罪が判明した時の精神的ダメージは、プロの裁判官よりも裁判員の方に大きいでしょう。それが死刑を選択した後だったら、ましてや、死刑が執行された後で冤罪が判明したら・・・考えるだけで恐ろしいことです。

 性犯罪に限りませんが、「無罪を証明する」ことは大変な困難を伴います。特に、警察・検察当局が取り調べの可視化や代用監獄の廃止に頑強に抵抗し、被疑者の接見交通権も日常的に妨害されている(国家賠償訴訟で接見交通権の侵害が認められたケースもあります)現状では、「冤罪の可能性」を完全に否定して裁判に臨むことはできません。こうした状況の中で、裁判員が「世間の風潮に流されて」厳罰化の方向に向かってしまわないとも限らないのです。

 性犯罪に対する刑罰の「重罰化」そのものには、私は反対するものではありません。しかし、裁判員制度(や被害者参加制度)によって安易に厳罰化が進んでしまうとしたら、とても恐ろしいことになると思います。今こそ司法制度の大幅な改善が必要だと思います。取り調べの完全な可視化や代用監獄の廃止、接見交通権の無条件の保証、証拠の保全機関の設立など、被疑者、被告人に充分な防御権が保障されることが、裁判員制度の実施に当たって最低限の必要なことだったのです。

 裁判員制度が始まって間もないため、今はマスコミも裁判自体を大きく報道し、裁判員のインタビューなども積極的に行なっています。しかし、「慣れて」くれば関心も薄くなってしまう危険性があります。特に、裁判員が裁判終了後も合議内容を話すことができない、というとんでもない縛りがかかっているために、裁判員制度そのものの合理的な検証が難しくなっています。少なくとも、この点だけでも改善されないと、法廷が「報復の場」になってしまう危険すら感じます。

2009年4月22日 (水)

本日の「怒」090422/裁判2題・・・死刑制度と裁判員制度について再び問う

 昨日、裁判にまつわる二つの大きな出来事がありました。ひとつは「毒入りカレー事件」です。こちらについては、すでにたくさんの報道がなされているので、よくご存知のことと思います。

 もうひとつは「足利事件」と呼ばれているものです。この事件を記憶している方は、相当この手の裁判に興味があった人に限られるかもしれません。

 事件の概要は以下の通りです。

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 1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場で遊んでいた女児=当時(4)=が行方不明になり、翌日、近くの草むらで遺体で見つかった。栃木県警は翌年12月、DNA型鑑定の結果、付近にあった下着から検出された体液と型が一致したなどとして、菅家利和受刑者を逮捕した。

 DNA型鑑定は、警察庁科学警察研究所で当時導入されたばかりだった。弁護側は信頼性に疑問があるとしたが、最高裁は2000年7月、証拠能力を認める初判断を示し、一審無期懲役判決が確定した。(時事通信)
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 この事件の特徴は、当時最先端の技術として脚光を浴びていたDNA鑑定によって、犯人否認事件にも関わらず、有罪が確定的に」社会的に認知されたことです。にもかかわらず、今回は、検察、弁護側双方の推薦する鑑定人が、いずれも犯人の体液のDNAが菅家受刑者のDNAと「必ずしも一致しない」という検定結果を出しました。(この「必ずしも一致しない」とは、「一致するかもしれない」ではなく、「同一人物とは考えにくい」という意味です。)

 この事件が裁判員制度の下でどのようになるか、考えてみて下さい。素人である裁判官は、DNA鑑定という「権威」にさからった判断をくだせるとは到底思えません。仮に、この事件が1990年ではなく去年の出来事であれば、「死刑」という判断も下ったかもしれません。そして、確定判決から9年ということは、その間に死刑が執行されていた可能性も否定できないのです。

 この事件、恐らく再審になると思いますが、唯一の物証であったDNAが否定されれば、有罪とされた原審が破棄されるのは間違いないでしょう。タイミングがずれていれば、無実の人間を殺してしまったことになったかもしれません。

 私は、昨年12月のエントリー(「裁判員制度について考える1」)で、原則として死刑廃止論者であることを述べましたが、まさにこの「冤罪の可能性」が現実のものとなった事例になってしまいました。

 これまでも多くの冤罪事件がありました。死刑や無期の判決が確定したものだけでも、警察が「こいつならやりかねない」という「社会的な偏見」を元に証拠をねつ造した島田事件や狭山事件(再審請求中)や、鑑定がいい加減である(結果を最初から決めて鑑定をしている疑いがある/有名な「古畑鑑定」などにその疑いが濃厚であるケースがみられる)ケースがあり、範囲を広げれば警察が事件自体をでっち上げたもの(最近では志布志事件)も少なくないでしょう。

 あらためて、裁判の恐ろしさ、死刑制度の無理を感じざるを得ません。

 話を「毒入りカレー事件」に変えてみましょう。

 この事件も、マスコミが長期にわたって連日取り上げたために、被告人が犯人であることを疑わない人が多いはずです。私もその1人であることは間違いありません。同じ「可能性が強い」ヒ素が自宅から見つかった、などと報道されれば、「あー、やったんだな」と思ってしまいます。しかし、裁判で判決を下す、しかも取り返しのつかない「死刑」という判決を下すためには、こんないい加減な判断は許されません。決め手とされる状況証拠を詳しく見た訳ではないのではっきりしたイメージはありませんが、DNA鑑定ですら誤りがある現状で、それでも「死刑」を選択することができるのかどうか、皆さんに問いたいと思うのです。

2009年4月15日 (水)

本日の「怒」090415/判決自体は高く評価したいのだが


 昨日、最高裁で痴漢事件の逆転無罪判決が出ました。差し戻しではなく破棄自判であり、検察側の立証がすでにつくされていると判断されての判決です。第3小法廷(田原睦夫裁判長)では3対2の結論であり、かなり際どい結果であったことがわかります。他の小法廷だったらどうなったか、不透明感は残ります。

 多数意見は、那須弘平、近藤祟晴、藤田宙靖の3判事、少数意見は堀籠幸男、田原睦夫の2判事です。

 痴漢事件は、ほとんどの場合被害者の証言が唯一の証拠となります。はっきりした反証がない限り、疑いをかけられた場合に冤罪を証明することには、大きな困難が伴います。これまでの逆転無罪(高裁段階での)事件を見ていても、偶然携帯電話でメールのやり取りをしていた証拠が残っていたり、大変な苦労をして被害者側の証言方法では実行できないことを検証したりした、ごくわずかな例が認められただけです。意図的に痴漢事件をでっち上げられるケースも後を絶ちません。これは「痴漢事件をでっちあげればお金になる」と思われていることで、実際に泣き寝入りしてしまった「犯人」がどのくらいいるのか見当もつきません。

 もちろん、本当に痴漢事件があったときの被害者側の痛みを考えないわけではありません。しかし、国家権力が強制力をもって個人の人権を制限する刑罰を与える場合、間違いがあってはなりません。そのために、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事法制の大原則があるのです。

 残念ながら、日本では検察が起訴した段階で「起訴されたのだからやったのだろう」と考えてしまう風潮があります。これまでの裁判を見ていると、裁判官の中にもこうした意識がないとは言えません。検察が有罪を立証するより、被告人側が無罪であることを「立証」しなければならない状況に置かれてしまうことが少なくないのです。

 こうした状況のもとで、裁判員制度が始まります。新しい裁判員制度の恐ろしいところは、有罪/無罪も量刑も「多数決」で決められてしまうことです。裁判の現場で鍛えられていない素人は、おそらく立証段階でのイメージに流されてしまう危険が高いでしょう。痴漢事件は裁判員制度の対象ではありませんが、同じように被害者やある特定の目撃証言が検察側の立証の中心になるケースも出てくるはずです。こうしたときに、冷静に法理・原則を踏まえた判決が下せるのかどうか、大変心配です。

 さらに、こうした「危惧」を検証する手段が禁じられています。裁判員は具体的な裁判の内容を明らかにすることが許されません。つまり、疑問に思ったことでもそれを表明することが許されないのです。とすれば、こうしたぎりぎりのケースを実例として積み上げ、検証してその後に生かすことができません。そうした事実を、参加する裁判員の方々はご存知なのでしょうか・・・

2009年3月 3日 (火)

本日の「怒」090303/宗教的な自由とは


 先月あった判決ですが、理由があってしばらく書くのを待っていました。判決の内容です。

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靖国合祀 拒否請求を棄却 大阪地裁 『英霊は苦痛』認めず
2009年2月26日 毎日新聞夕刊
 靖国神社に「英霊」として祭られ続けているのは苦痛だとして、元軍人・軍属十一人の遺族九人が、神社に合祀(ごうし)の名簿から削除するよう求めた訴訟の判決で、大阪地裁(村岡寛裁判長)は二十六日、請求を棄却した。遺族は併せて神社と国に一人当たり百万円、計九百万円の慰謝料も求めていたが、判決は退けた。 
 神社を被告とし、遺族の意に反した合祀の是非に対する司法判断は初。同様の訴訟は東京、那覇両地裁でも争われている。遺族は控訴の方針。
 判決理由で村岡裁判長は、「故人を敬愛追慕する人格権」が侵害されているとの遺族の主張について、「合祀という宗教的行為による不快の心情か、神社への嫌悪の感情としか評価できない」と指摘。
 殉職した自衛官の遺族が国などに起こした「自衛官合祀拒否訴訟」の最高裁判決(一九八八年)を引き、「合祀は神社の信教の自由に基づき自由にできる。強制や不利益の付与もなく、遺族が主張する人格権は法的に保護すべき利益とは認められない」と結論づけた。
 国は八〇年代まで氏名や所属を記した「祭神名票」(戦没者調査票)を神社に提供し、合祀名簿に当たる祭神簿や霊璽簿づくりに協力。遺族側は国の責任も問うたが、判決は「神社のためだけに戦没者情報を集めていたわけではない。合祀は神社が最終的に決定しており、国に事実上強制したとみられる影響力はなかった」と退けた。
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 今日まで書くのを待っていた理由は、産経や読売に社説ないし解説記事がでないか、と期待していたからです。産経のスタンスとしてはこの判決を評価するしかないと思われるのですが、果たしてどんな論拠がありうるのか、大いに期待していたのですが・・・

 とりあえず、北海道新聞と朝日新聞の社説をご覧下さい。

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靖国合祀訴訟 遺族感情軽んじた判決(2月27日/北海道新聞社説)
 靖国神社に合祀(ごうし)された戦没者の遺族が、神社に対して合祀の名簿から削除するよう求めていた訴訟の判決で、大阪地裁が請求を棄却した。
 「英霊」として祭られ続けるのは苦痛だと遺族側は訴えていた。それでも合祀を認めるという司法判断である。遺族の感情や意見を軽んじた判決と言わざるをえない。
 原告は、旧軍人や軍属の遺族ら九人。父や兄、叔父らは太平洋戦争に従軍し、戦死するなどして靖国神社に合祀された。
 裁判で遺族側は、思想信条や意思に反した合祀は「故人を敬愛追慕する人格権」の侵害だと主張した。
 だが判決は、合祀による不利益などはなく、「遺族が主張する人格権は法的に保護すべき利益とは認められない」と結論づけた。
 また、合祀について「信教の自由に基づき自由にできる」と、神社側の主張に沿った判断を示した。
 その一方で、遺族感情に関して「合祀という宗教的行為による不快の心情か、神社への嫌悪の感情としか評価できない」と片付けた。
 判決後、原告側から、神社側には信教の自由を認めながら、遺族の思いは無視するのか、との声が上がったのは当然だろう。原告は控訴する方針だ。
 現代では、宗教に対する考え方や遺族感情が多様化している。靖国神社の合祀についても、さまざまな意見があっておかしくない。
 神社に祭られたくないという遺族の意見は、最大限に尊重されてよいのではないか。
 旧厚生省が靖国神社側の要請に協力する形で、戦死した軍人、軍属の名簿提供を始めたのは一九五六年からだ。しかし、政教分離の原則に触れるとの批判が高まり、八七年に中止した。
 原告側は、神社の合祀名簿作成に協力した国の責任も追及した。判決は「合祀は神社が最終的に決定していた」として訴えを退けた。
 神社を被告とし、合祀の取り消しを求めた初の司法判断だったが、結果は、従来の判例を踏襲した内容にとどまった。
 靖国神社をめぐる訴訟はこれまで、首相の参拝や玉ぐし料といった政教分離が主な争点だった。
 近年は、東京や那覇の地裁で、合祀されたことの是非を問う訴訟が起きている。
 戦没者追悼のあり方をめぐっては二〇〇二年、官房長官の私的懇談会が、「無宗教の国立施設が必要」との報告書をまとめたが、たなざらしになっている。このままでは、合祀の是非をめぐる議論がさらに混乱しかねない。責任は政治にもある。

[朝日新聞] 靖国合祀判決―歴史に向き合った判決を (2009年3月1日)

太平洋戦争で死んだ父や兄たちが、遺族の意思に反して「英霊」として靖国神社に祀(まつ)られた。合祀(ごうし)を取り消してもらえぬものか。
靖国神社と国を相手取り、戦没者の遺族9人が合祀の名簿から親族の名前を削除することなどを求めた訴えに対して、大阪地裁はすべてを退けた。
靖国神社をめぐっては、小泉元首相による参拝などを機に、憲法の政教分離原則との背反を問う多くの裁判が起こされた。
今回は、合祀をめぐって靖国神社を初めて被告に加え、遺族が反対しているのに祀り続けられることで、故人をしのぶ権利が侵害されたという訴えだった。
判決はいう。原告の主張は、合祀に対する不快の心情や靖国神社への嫌悪の感情としかいえない。権利の侵害が認められるのは強制や不利益を伴ったときだけだ。合祀は信教の自由に基づいて靖国神社が自由に行えることで、強制や不利益を与えない。だから遺族の法的利益が侵害されたとは認められない、という理屈だった。
これには疑問が残る。まず、判決が靖国神社を一般の宗教法人と同列に扱っていることへの違和感だ。
靖国神社は1945年の敗戦まで国家神道の中心、軍国主義を象徴する存在だった。国家機関として軍が管理し、合祀対象者は陸海軍の大臣が天皇の裁可を得て決めていた。
戦後に一宗教法人になったとはいえ、靖国神社が担ってきた歴史をみずから否定したわけでも、断ち切ったわけでもない。憲法の信教の自由に基づいてできた宗教施設と単純にいえるだろうか。そうした背景をまったく顧慮しないまま行われた遺族の権利についての司法判断は納得しにくい。
もうひとつ、合祀には戦後も政府が関与していた事実がある。合祀対象者は靖国神社が決めることになったが、実際には旧厚生省が「戦争による公務死」と認めた人々だった。厚生省は戦没者の氏名や階級、死亡理由などの情報の提出を都道府県に求め、それを靖国神社に提供した。合祀を遺族に通知させてもいた。
こうした事実は国立国会図書館の新資料で明らかになり、それを原告側が法廷で指摘した。宗教法人になってからかなり後の時期まで、戦前さながらの関係が残っていたことになる。政教分離の原則を揺るがすものだ。
だが、判決は「国の行為は多数の合祀を行う上で重要な要素をなしたが、合祀は靖国神社が最終的に決定した」と判断して、国の責任も退けた。
国家神道が戦争遂行に果たした役割は大きい。そこに遺族の思いの源もある。東京、那覇地裁でも同様の訴訟が審理されている。歴史や憲法の理念に正面から向き合った判断を期待する。
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 この社説で大きな問題点はほぼ指摘されています。最大の問題は、判決が個人の宗教的な人格権を「合祀という宗教的行為による不快の心情か、神社への嫌悪の感情としか評価できない」として否定しているところです。宗教的行為によって不快な感情を持つこと自体が宗教的な人格権を侵害を意味するのですから、この判決の論旨は「結論を出すためのこじつけ」でしかありません。もちろん、判決自体が「宗教的な人格権は認めない」というところまで踏み込んでいるのであれば、「結論はともかく」論理的には整合性がありますが。

 朝日社説が論じているように、靖国神社の行為を、完全に独立した宗教法人の行為とすることにも無理があります。国が戦没者の名簿を「合祀のために」提供した以上、他の宗教法人の行為とは質的に違うと言わざるを得ません。例えば、創価学会が国に「人類とすべての国民の幸福のために、死亡者の名簿を見せて下さい」と請求したらどうするのでしょうか。もちろん、こんなことがあるわけはないのですが、現実問題として意に反した合祀がされている以上、それに対する救済がないことには納得がいきません。

 産經新聞、社説を書かないかなぁ・・・

2009年1月23日 (金)

本日の「危惧」090123/理性を失う危険・・闇の職安事件に思う


 朝、出がけにテレビ朝日のニュース・ワイドショーで、名古屋で起こった殺人事件が取り上げられていました。事件の概要は皆さんもご存知だと思いますが、携帯電話の「闇の職安」サイトで知り合ったばかりの3人の男が、帰宅途中の女性を拉致・殺害したというものです。20日に論告求刑公判が行なわれ、自首した1人を含む3人に死刑が求刑されました。事件自体の残虐性は言うまでもありません。被害者の女性の恐怖と苦しみ、残された方たちの絶望感がいかばかりかと思うと、やりきれない思いでいっぱいになります。被害者の母親が死刑を真剣に望んでいることも、ある意味で当然だと思わざるを得ません。

 しかし、敢えて危惧を表明したいのです。それは、番組の中でコメンテーターが発言していた内容、そして、紹介されていた検察の論告求刑の一節に違和感を覚えたからです。

 違和感を覚えた点は、二つあります。ひとつは、刑事法制そのものに対する「混乱」「不信」です。

 検察の論告求刑には「被害者の母親の気持ちに応えることこそ法の役割」という一節があるそうです。それを、大谷コメンテーターは「画期的なこと」と評価していました。また、「被害者の苦しみを考えると、死刑は甘い。同じ苦しみをあたえないと」というコメントもありました。

 これらの意見は、はっきりと「応報刑」の方向を示しています。イスラム社会の法制度がよく話題になりますが、「目には目を」という発想です。ここ数年、「被害者の感情を大切にするべき」という主張が強くなり、さまざまなところで大きな話題になっています。日本の法制度は被害者に対して非常な面が強く、被害者の救済がおざなりにされてきたことは確かです。しかし、そのことと「被害者が望んでいるから死刑にしろ」ということは、同列に論じられるべきものではありません。それなら、法律はいらないでしょう。

 こうした議論が盛んになってしまった裏には、現状の司法や司法制度、犯罪者の処遇などに対する不信感があるのだと思います。司法が正義を実現していると思えない人が増え、刑務所が犯罪者の再犯を防ぐ機能を果たせず、犯罪被害者が正当に扱われて来なかったことが、その根本的な原因なのです。

 違和感をもったもうひとつは、「自首」の扱いです。レポーターが「死刑を逃れるために自首して反省していないのに、刑を減ずることはできない、という検察の考え」と説明したことに対して、コメンテーターの全員が賛意を表していました。しかし、ここには落とし穴があります。

 刑法にある規定は、簡単に言うと「自首した時には減刑できる」というものです。これは裁判所が判断することです。なぜ裁判所が判断するかと言うと、「客観的に判断できる」という期待があるからです。それは、通常の裁判と同様、検察側と被告側の主張を裁判所が「判断する」という役割を果たすことが前提になっているからです。実際に裁判所がそのように機能しているか、ということについては私も疑問がありますが、少なくとも検察や、ましてや被害者の感情によって、自首の減刑の可否を決めるべきではないのです。

 このような風潮が強くなると、次第に「法治国家」の意味が変質するのではないか、ということが、この問題の取り上げ方を見ていて感じた危惧です。

2008年12月 9日 (火)

裁判員制度について考える3


【2】裁判制度についてのいくつかの疑問点

1)裁判員の欠格条項についての疑問

 今回の裁判員制度において、自動的に辞退が認められるケースと裁判員として採用されない、いわば「欠格条項」があります。70歳以上の高齢者、警察官や議員などについては、辞退が認められる/欠格である、ことに全く異論はありません。問題は、「法に従って死刑を下せるか」、すなわち、死刑廃止の意見を持っている場合、自動的に裁判員としての資格がないとされることです。この欠格条項には、裁判員制度を導入するにあたっての目的にも反する、二つの問題があります。

「死刑は違憲」ないし「死刑は日本が加盟している条約違反」「人道に対する罪」などの主張を押し出して弁護側が裁判を進めると、こうした主張は必ず却下されます。仮に下級審で認められたとしても、現状の最高裁ではひっくり返ります。そのことをもって「死刑を下せない裁判員は、現行法制に対して忠実に職務を果たせないので欠格」というのが、死刑廃止論者を裁判員から閉め出すことの根拠です。これは、二つの矛盾を抱えています。①そもそも国民の意思を反映させるのであれば、死刑廃止論者を閉め出すことは特定の意見を排除することになる ②最高裁の判例は普遍のものではない、ということです。

 ①については、言葉通りですのでおわかりいただけるでしょう。職業的裁判官、特に下級審の裁判官の多くは、「上を向いて」仕事をしています。上とは、もちろん最高裁のことです。最高裁の判例やその時の最高裁の構成によって予想される判決に対して「従順」であり、さらに、遅滞なく裁判を進行させてたくさんの事件を処理する能力を見せなければならないのです。こうした点は昇進に直接的に影響しますので、ほとんどの裁判官は「上を向いた」訴訟指揮をとらざるを得ないのです。本来、裁判員制度は、こうした裁判官の閉鎖的な社会にいない国民が、その目線で事件を見ることが目的であるはずです。ですから、思想信条で欠格条項を作っている今の裁判員制度は、自己矛盾を抱えたものだと言わざるを得ません。

 ②:最高裁判事の構成の変化で、それまでの最高裁判例が修正されたことも多いのですが、社会情勢の変化や下級審で最高裁判例に反する判決が相次いだ結果、最高裁の判例が修正されたこともあります。最高裁が、実際に施行されている法律に対して意見の判断をし、国会がそれに従って立法処置を施したこともあります。こうした歴史的事実を踏まえれば、「死刑は違憲」という判断を最高裁が下す可能性を否定することは合理的ではありません。つまり、下級審で「違憲であるから死刑は回避する」という判決をすることも、理論的には否定する意味がないのです。

 こうした歴史的な意味を無視して、「死刑廃止論者は裁判員として不適格」ということは、大きな問題があるとしか考えられません。

2)国民の理解を欠いたままで仕事が休めるか。自由業、自営業者の扱いは?

 政府は、裁判員への参加を促すために、企業に対しての理解と有給休暇などの処置をとるように要請しています。会社員、特に大企業のように休暇をとる余裕がある場合は、裁判員になることがそれほど大きな負担になることはないでしょう。しかし、自由業や自営業者の場合は深刻です。「自分がいないと売り上げが極端に減る」場合は、裁判員を辞退することができるようですが、自由業や単身で事業を行っている自営業者の場合、裁判員になることは即ち収入をなくすことに他なりません。有給休暇をとって裁判員の日当が得られる勤め人とは、全く状況が異なるのです。

 かといって、こうした人たちに無原則に辞退を認めれば、裁判員の構成が「有給休暇をとることができる企業に勤めているか、勤めを休むことができる、ないし務めていない人」という人に限定されてしまいます。こうなっては、国民の意見をくみ上げる、というより、ある程度の余裕がある人たちの意見を集約する、ということにしかなりません。

3)時間をかけた議論が必要な場合に対する問題・・・柔軟性が確保できるかどうか

 裁判の迅速化の中でも問題にされて来たのですが、時間をかける必要がある時にそれができるかどうか、ということも危惧されます。例えば、裁判の中で出て来た証言から新たな証拠を調べなくならない場合、予定されている期間で裁判自体が終わらない可能性もあります。現状の裁判では(訴訟指揮で問題になることもありますが)、そのような場合は新たな証拠調べの時間をとるかどうかを裁判官が判断します。しかし、仕事を抱えている人が参加している裁判員の中には、そうした余裕がない人も出てくるでしょう。また、裁判官がそのような「裁判員側の事情」で、証拠調べなどの必要な処置をとらずに済ませてしまう危険もあります。こうした問題について、現状では明確な方針も回答もありません。

4)守秘義務について

 もうひとつ、守秘義務について付け加えておきます。裁判員は、裁判で経験したことを他言することは許されません。しかも、その義務は一生にわたります。この点については、重大な疑問を感じます。
 市民が裁判に参加する制度を持っている他の国の多くは、守秘義務は裁判の進行中か、ないし年限を切ったものです。これにはいくつかの理由があります。「間違いを正す」「自分の意見を言うことができる」という原則に則っているのです。現状の裁判員制度では、少数意見を反映させる方法はありません。その点を考えると、この「守秘義務」は、せっかくの市民参加の質を貶める可能性が高いと思うのです。

 この他にも問題はありますが、この4点については、あまりに拙速な判断がなされたような気がしてなりません。実際に裁判員制度がスタートしてみれば新たな問題も出てくるとは思いますが、とりあえず、もう一度制度自体の精密性を考え直した方が良いのではないか、というのが私の意見です。


2008年12月 8日 (月)

裁判員制度について考える2


(2)どうしても「強者の論理」が通りやすい現状の司法の状況

 これは立法とも関わる問題なのですが、現状の裁判制度では、どうしても強者の論理が通りやすくなっています。民法の不法行為の原則によると、加害者側に不法行為(故意や過失)があったことは被害者が証明しなければなりません。このことが、長い間、公害訴訟の原告や食品汚染の原告たちを苦しめてきました。高度に専門性を必要とする立証責任を原告側に負わせることで、企業(や国)が責任を逃れて来た歴史があるのです。PL法が施行され以来、幾分改善された(裁判所の判断もやや被害者側に沿ったものが増えて来た)ように感じられますが、それでも「厚い壁」が立ちはだかっている現状は変わりません。特に医療過誤訴訟などでは、どうしても被告病院側の主張が通りやすく、裁判官も場合によっては最初から結論を決めているかのような訴訟指揮をすることすらあるのです。

 この問題は、実は司法だけの問題ではありません。官僚組織や政治家が、お金のあるもの、力の強いものばかりを見て政策立案をして来たことのつけがきているのです。薬害エイズなどでもはっきりしたように、厚生省(厚労省)は「製薬会社を守るための」役所であり、国民の健康を守るためのものではありません。もちろん、通産省(経産省)も製品を作る会社を守るための組織であり、国民が安全に製造物を使えるようにするためのものではありません。(もちろん、製薬会社や製造業の会社が責任を追及されないための安全基準は念入りに作りますが。)こうした政治の状況が、司法にも直接的に影響しているのです。現実問題として、下級審が最高裁の判例に縛られる以上、最高裁の構成を乗り越えることは不可能だからです。こうした点でも、

(3)最高裁判事の構成が政府によって左右されること/最高裁の形式主義

 この点も大きな問題です。これは、国民審査が有効に機能していないことも含めて、日本の裁判制度が抱えている大きな問題です。法曹の専門家の間では「異端」であっても、政府の方針に沿って通説すら無視しした判決が下されたことも少なくありません。(特に、労働法などで顕著でした。)

 権力寄りの姿勢を保ち続ける最高裁は、例えば再審の道をできるだけ狭くする、という最高裁の過去の方針でもはっきりしていました。白鳥事件における最高裁の決定により、「疑わしきは被告人の利益に、という原則は再審事件でも適用される」という「当たり前のこと」が認められましたが、それでもまだ「冤罪ではないか」という事件の上告が原則論で棄却されたり、再審請求が認められなかったりすることは少なくありません。最近、テレビ朝日の朝のニュースバラエティーで疑わしい事件をよく取り上げていますが、こうした報道がなされること自体、最高裁がいかに権威主義、形式主義であるかを象徴しています。

(4)裁判に時間がかかりすぎる場合が多い

 これも大きな問題です。実際に裁判に時間がかかりすぎて、被害者、(原告)、被告双方の人権上の問題が生じている、ということもありますが、それ以上に問題なのは、裁判所が効率主義で動いていることです。時間がかかりすぎる裁判に批判が集まると、裁判所はできるだけスピーディーに判決まで持っていくことを優先するようになりました。現在では、争点を絞ることが行なわれていて、かなり時間の短縮が行なわれています。しかし、裁判所が「迅速性」だけを優先すると、どうしても訴訟指揮が乱暴になり、必要な証人を呼べなかったり証拠調べがいい加減になったりすることが多いのです。

 司法試験が新しい制度になって修習生が増えたにもかかわらず、相変わらず裁判官は「人手不足」です。その根本的な原因を考えてみる必要がある時期に来ているように思います。

(5)国選弁護人制度が充実してない

 冤罪事件や、マスコミで取り上げられてから判決がひっくり返った事件などを見ていると、現状の国選弁護人制度が十分に機能していないことがわかります。理由のひとつは、国選弁護人の報酬の低さです。以前書いたように、1時間の会議に出るだけで10万も20万も報酬を得る弁護士もいれば、汗水たらして被告人のために働いて「時給700円以下」という報酬しかえられないことも少なくない国選弁護人もいるのです。こうした矛盾を内包したままでは、言葉は悪いですが「手抜き」をする国選弁護人がいても不思議はありません。他にも問題はありますが、国選弁護人制度をきちんとしない限り、問題はなくならないでしょう。

(6)代用監獄の問題/起訴前弁護のシステムがしっかりしていない

 一昔前のアメリカの刑事ドラマで、容疑者が警察に連れて行かれた時に「弁護士を呼べ。それまで話はしない」と刑事に言うシーンがあったことを記憶している方も多いでしょう。アメリカのシステムを賛美するわけではありませんが、容疑者となった瞬間から権力との対立構造の中に置かれることの意味を理解しているからこそ、こうした制度を当然として受け入れているのだと思います。これに対して、日本では長い間、起訴される前に弁護士をつけるという発想がありませんでした。(この国では、弁護士を呼ぼうと思っても、接見を妨害されることすら珍しくありません。実際に、接見妨害で賠償が認められた例すらあるのです。)そのために、初期段階で「偽りの自白」を強要されることが多かったのです。

 日本でも2年前から、起訴前の国選弁護人制度が施行されました。形式的には、これまでと違って、拘留中の被疑者にも国費で弁護士がつけるようになりました。しかし、問題点は少なくありません。まず第一に、警察に留置されている状態では弁護士をつけられないこと。これは、悪名高き「代用監獄」の問題とも関連があります。形式的に「勾留」に変わって弁護士が付けられるようになっても、「留置」の状態が続くことで、被疑者に対する精神的な圧力は続きます。国際的にもこれだけ非難を受けている制度を、批判にまるで耳を傾けることなく続けている司法当局の神経の太さには驚くばかりです。

 起訴前に弁護士がつけられることを、被疑者にきちんと伝えているのかということにも疑義を感じていますが、経済的な問題(国選弁護人をつけるに際して所得制限を超えていないことを申告する)でタイミングが遅くなってしまう可能性があることも問題です。私撰弁護人を探す/見つからない/国選弁護人を申請する、という作業の間も、警察施設に留め置かれたままの取り調べは続きます。その間にプレッシャーがかかって「嘘の自白」をするという、冤罪が繰り返されてきた基本的な構造がなくならないことを恐れているのです。

 取り調べが「自白をとる」ということを第一目標に、真実の解明が二の次にされてきたことが、冤罪がなくならない根本的な背景です。そして、司法制度やその運用が、その傾向を強くしてきました。現在でも、警察・検察は「有罪にしやすくするための取り調べの可視化」を狙っていますが、こうした体質を変革しない限り、せっかく作られた起訴前弁護のシステムも、「魂入れず」になってしまうでしょう。

(7)名ばかりの国民審査

 毎回、恐るべき低投票率の国民審査ですが、原因はもちろん国民の裁判に対する意識の低さです。今回の裁判員制度が、こうした国民意識の変革につながることが望ましいことは言うまでもありません。しかし、実際に最高裁判事がどのような人か、ということを、もっと国民に解りやすい形でアピールする必要もあるでしょう。最高裁の判決では、少数意見も必ず披露されます。こうしたことを積極的に報道するような姿勢を求めたいと思います。

2008年12月 7日 (日)

裁判員制度について考える1


 来年から、裁判官以外の一般国民が裁判に加わる「裁判員制度」が始まります。最初の裁判員候補者のところには、すでの最高裁判所から通知が届きました。しかし、各種の世論調査などを見る限り、国民の反応は総じて「自分はやりたくない」というもののようです。裁判員制度の詳しい仕組みは、まだ国民に対して周知徹底されているとは言えない状況ですが、これまで司法制度に対して興味がなかった人も、裁判を自分の問題として考えるようになってほしいと思っています。

 現在の司法制度に対しては、たくさんの問題を感じています。裁判員制度は刑事事件だけですが、民事の問題も含めて列挙してみましょう。

1)刑事事件の有罪率が高すぎる/冤罪を裁判所が見抜けない
2)どうしても「強者の論理」が通りやすい現状の司法の状況
3)最高裁判事の構成が時の政府によって左右される
4)裁判に時間がかかりすぎる場合が多い
5)国選弁護人制度が充実してない
6)代用監獄の問題/起訴前弁護のシステムがしっかりしていない
7)名ばかりの国民審査

 裁判員制度が導入されるいちばん大きな理由は、「職業的な意識が強い裁判官だけでなく、国民の目線を裁判に取り入れる」ことだとされています。裁判員制度の運用次第では、上記の1、2などは改善される可能性がありますが、これまで報道されてきた世論調査や各地で行なわれている模擬裁判などを見る限り、はたしてどれだけの効果があるかどうかはわからないとしか言えません。

 新しい裁判員制度がどのように運用されていくのかはまだ分かりませんが、現状ではいくつかの問題があるとしか思えません。いくつかの点を指摘してみましょう。

1)裁判員の欠格条項についての疑問
2)国民の理解を欠いたままで仕事が休めるか。自由業、自営業者の扱いは?
3)時間をかけた議論が必要な場合に対する問題・・・柔軟性が確保できるかどうか

 もはや「待ったなし」になったこの制度が施行されるにあたり、こうした問題を少し掘り下げて考えてみたいと思います。

【1】現状の司法制度が抱えるさまざまな問題

(1)相変わらずなくならない冤罪事件

 私は、「原則的には」死刑廃止論者です。原因はシンプルで、「冤罪の可能性を排除できないから」です。そう思わざるを得ない裁判の現状は、とても恐ろしいものだと思います。(実は、裁判員制度では「死刑を選択する意志がない人」は候補から排除されますから、裁判員になりたくなければ「私は死刑に反対しています」と言えばよいのです。残念なことですが、私の周りにも「自分は死刑廃止論者だと言うつもり」という人が何人もいます。)

 冤罪事件が繰り返される背景には、いまだに根強い「警察信仰」があるように思います。容疑者が逮捕されると、「警察が逮捕したのだから悪いことをした人なのだろう」という、一種の「安心感」を持ってしまう人がほとんどだ、という風潮があるのです。こうした背景が生まれた理由は、日本人の従順性と勤勉性があるのだと思います。日本は歴史的に市民革命や独立戦争の経験がなく、西欧社会のたどってきた歴史やアジア、アフリカなどの独立などのように、自分の力で権利を獲得した経験がありません(注1)。また、儒教が「ねじ曲げられて」流布されてきたために(注2)、上のものは偉いし優れているのだ、という意識が強烈に刷り込まれてきました。その結果、「お上に従う」ことを良しとする意識が根付いてきたのです。ですから、政府に反対することを「逆らう」と表現することに違和感を持たない層が多いのです。

(注1)市民革命や独立戦争:明治維新に「民主化への革命的な要素」を指摘する議論がありますが、賛成できません。明治維新は単なる権力闘争であり、民主主義や個人の権利を認める方向に変化したものではないからです。5か条のご誓文、特に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」をもって民主主義を指向したという指摘がありますが、これは原案では「天皇と大名の諸国会議」を目指したものが「そんなことを天皇陛下にさせることなどできない」とされて書き直されたものです。つまり、マグナ・カルタのような「王家と貴族の契約」にすらなっていないものであり、民主的な要素など微塵もありません。もちろん、実際に明治政府が民主的な政策をとらなかったというその後の歴史的事実を示せば充分なのかもしれませんが。

(注2)儒教について:多くの人が、儒教とは「親を大切にしろ、年長者や位が高い人を敬え」という教えが根幹だと思っています。実際には、「権力者は優れたものを持って尊敬/信頼されるように努力せよ」という意味があるのですが、そのことは完全に「伏されて」いるようです。実際に、日本では儒教の教えの「上は偉い」という一面だけが、意図的に拡げられてきました。これは、為政者にとっては実にありがたい教えで、「無知蒙昧な民衆は黙ってついてこい」という発想に繋がります。「議員さんは偉い」「警察官は偉い」という根拠亡き信仰が広まった文化的背景でもあります。

 こうした文化的土壌を背景に、警察/検察は、意図的な証拠隠滅や偽造、証言の書き換えなど、ある意味で「やりたい放題」をしてきました。死刑判決を受けながら再審で冤罪だと断じられたケース、志布志事件のように警察が全く虚構の事件そのものを作り上げたケース、富山の婦女暴行事件のように「とにかく犯人を捕まえることが優先」として「あいつならやりかねないと思われる人」を犯人にでっちあげた事件。取り上げればきりがないのですが、現在も繰り返し起こされていることを鑑みると、現在の警察/検察の姿勢のままでは、こうした冤罪事件がなくなるようには思えません。仮に、証拠や証言がねつ造されていた場合、数多くの事件を見てきた職業的裁判官でも見抜けないものを、私たち素人が見抜くことができるのかははなはだ疑問です。少なくとも「取り調べの可視化」(警察や検察が主張しているように警察や検察にとって都合の良いところだけを録画するのではなく、取り調べ全体を録画することが不可欠です)が実現しない限り、人の人生を左右する判断を適正に行なう自信はありません。

 警察や検察が、刑事事件の検挙率/有罪率を引き上げることを目指すこと自体は不思議なことではありません。警察や検察は、刑事事件を解決(予防)して社会的安定を保つための存在であるからです。しかし、冤罪事件では、警察や検察の活動が直接的に国民の権利を侵し、場合によっては生命さえ奪うことになるのです。民主国家では本来は国民と対立する存在であるはずがないこうした「権力機構」が、ある種の暴力装置として働いてしまう(それも、逃げられない圧倒的な力を持ったものとして)ことは、とても恐ろしいことです。「事件を解決して社会的安定に寄与する」という目的が「とにかく犯人を有罪にする」ことに変化してしまっているように思うのです。

 また、裁判所が「起訴されたものは基本的に有罪」という姿勢を持っているように見えることも、疑問に感じていることのひとつです。現状の日本の裁判は、「有罪たる事実を証明する」というより「無実であるという証拠を示す」という、ある意味で被告人に立証責任があるかのような進行が当たり前になっているように思えるのです。そこには、もちろん「疑わしきは被告人の利益に」「有罪が確定するまでは無罪推定」という、近代的民主的な司法制度の前提は成り立ちません。報道されているさまざまな「疑わしい」事件の経過をみていても、裁判所が、「原則的には検察の証拠が正しい。ただし、どうしてもそれが否定されるような証拠が出た場合のみ、弁護側の証拠を勘案する」という姿勢にあるようにしか見えないのです。

 こうした構造に、裁判員制度が風穴をあける存在であれば、大いに意味があると思います。しかし、現状報道されているようなシステムでは、やはり参加する職業裁判官のリードに沿った判断がなされてしまうのではないかと思わざるを得ません。そうしたとき、裁判の結果が「一般国民も参加して下した判断なのだから文句を言うな」という、「印籠」に使われてしまうとしたら、冤罪事件の被告人はたまったものではありませんし、私自身もその過程に与したくはありません。

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