本日の怒091110/それでも死刑について考えてしまう/オウム実行犯の死刑確定を受けて
オウム真理教の「サリン事件」実行犯、広瀬、豊田両被告の死刑判決が確定しました。被害の大きさや事件の悪質さを考えると、現行法制では死刑判決が覆ることはないだろうと思っていましたが、その通りの結果となりました。
産經新聞は、遺族が「望んだ判決」を受けての、複雑な心境を報道しています。
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「複雑な心境」遺族や被害者ら会見 オウム2幹部死刑確定
2009.11.6 20:20/産經新聞
広瀬健一、豊田亨両被告に対する上告審判決を傍聴した遺族らが、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、最終審の判断を受けて、心境を語った。
「地下鉄サリン被害者の会」の代表世話人で、営団地下鉄職員だった夫=当時(50)=を殺害された高橋シズヱさん(61)は、1審から最高裁まで傍聴してきた。「2人の被告は真摯に裁判に臨んでいた」と振り返った。「被害者や遺族が望んでいた判決ですが、2人は年齢的に私の子供と同じぐらいで、複雑な思いもする。オウム真理教事件の中では、2人は被害者だった」と語った。
広瀬被告がサリンを散布した地下鉄丸ノ内線で被害に遭い、重度の障害を負った浅川幸子さん(46)と傍聴した兄の一雄さん(49)も「許す訳ではないが、私も人の親。子供が過ちを犯し、判決を受けると考えると悲しい、複雑な気持ちになる」と話した。
その上で、「被告は拘置所で最低限の保障を受けられるが、被害者は置き去り」と述べた。言語障害が残る幸子さんは「オウム、大バカ」と声を上げた。
日比谷線で被害に遭った大上雅子さんは、これまで会見などを避けてきた。
「事件には触れたくなかったが、事件を知らない世代も増えてきたなか、伝えていかなければならない」と、事件風化への懸念を口にした。
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ネット上に見当たらなかったのですが、豊田被告は拘置所からの手紙で「カルトの恐ろしさ、カルトにそまらないために」という訴えをしていたそうです。その話や他の報道を読んで、この両名に死刑を執行する意味は何だろうとまた考えてしまいました。
私が学生の頃は、「オウム」ではなく「原理」がキャンパスで跳梁跋扈していました。洗脳された学生が「何も考えられない状態」でまわりの学生と衝突するのを見て、空恐ろしい気持ちを持ったことを覚えています。カルトの恐ろしさは、人間が知的活動をするための基本である「批判力」を奪ってしまうことです。大学、それも「一流」と呼ばれる大学に入学した学生がいとも簡単にカルトの魔の手に落ちてしまうのを見て、人間の弱さを痛感したものでした。
カルトに限らず一部の政治組織等も、こうした「洗脳」の方法を採ります。疑わずに活動してくれる「兵隊」としては、洗脳された人間は最も「役に立つ」からです。洗脳の方法はいくつかありますが、「恐怖」で支配する構造は同じです。支配されたメンバーは、どんなことがあろうとも「自分の頭で考える」ことを停止してしまいます。いわば「人間でなくしてしまう」のです。こうして、殺人をいとも簡単に犯してしまう「兵隊」が作られていくのです。
原理の場合でも、洗脳された学生を洗脳から解放するためには、多大な労力が必要でした。何しろ、相手は最初から外の人間の言うことを「聞かない」のです。普通の議論が成り立つはずもなく、いくら論破しても最後は「お前は悪魔だからそんなことを考えるのだ」でおしまいになってしまうからです。
残念ながら、こうした「カルト」は手を替え品を替え登場します。まともな頭で考えればインチキ教義だとわかるようなものがほとんどであるにもかかわらず、新しいカルトが次々と若者を「奪って」います。こうした現象が起こってしまう背景にはさまざまな問題がありますが(社会的な閉塞感や教育機関の問題など)、いずれにしても「批判力」を奪ってしまうこうした団体に対しては充分な社会的な注意が必要です。
広瀬、豊田両被告を死刑に処することは、ある意味で被害者の「溜飲」を下げることになるのかもしれません。私は被害者ではないのでその感情を共有することはできませんが、2人の「オウムの被害者」を死刑場の露としてしまっても、何もならないような気がして仕方がないのです。2人が本当に「気がついて」いるのであれば、生涯を通してカルトの危険性を訴え続けてくれる方がよほど意味があることではないか、と考えてしまいます。
私が死刑制度に反対しているのは、「冤罪の可能性があるから」という単純なものです。今回の事件は冤罪ではあり得ないようですが、それでも何か重たいものがひっかかっているような違和感を覚えてしまうのは私だけでしょうか。


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