政治/社会

2009年8月 7日 (金)

本日の「怒」090807/どこが「核廃絶を願ってる」だ。ハッキリ見えた日本会議の本質


 広島の被爆記念日である昨日、日本会議が「敢えて」田母神氏の講演会をぶつけました。広島市の秋葉市長が「被爆者の心情を考えて日程を変更してほしい」と申し入れたのですが、予定通り被爆記念日に行なわれたものです。頭が使えない「ウヨ」が「言論弾圧だ」と騒いでいましたが、展示会を実力で阻止するような連中が「心情を考えて日程を変更してほしい」という要請を「言論弾圧」と騒ぐことは、まさに片腹痛い思いです。

 まず、秋葉市長の要請に対する日本会議の見解を読んで下さい。引用は、あえて「日本会議の主張をよく理解していると考えられる」産經新聞からです。

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(前略)主催者側は、これまでも講演会のチラシ配布を市の外郭団体に依頼したが、市の政策方針に反するなどとして断られた、としており「私達は市長以上に核廃絶を願っている。北朝鮮や中国の核実験が問題になるなか、真の平和のためどうすればいいのか、という趣旨の講演会がなぜふさわしくないのか全く理解できない」と話している。(産經新聞6月29日)
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 さて、昨日の田母神氏の講演内容です。同様に、「ねつ造」を疑われないために(苦笑)産經新聞から引用します。

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田母神氏、広島で講演「核廃絶が即、平和につながるわけではない」
2009.8.6 22:10

 原爆の日の6日、広島市内で元航空幕僚長の田母神俊雄氏を招いた講演会「ヒロシマの平和を疑う!」が行われた。
 講演をめぐっては、秋葉忠利市長や被爆者団体が「被爆者や遺族の心情を逆なでする」などとして日程変更を要請。主催者側は地元紙に意見広告を出し、注目を集めていた。
 約千人を前に、田母神氏は、秋葉市長の平和宣言にふれながら、「核廃絶が即、平和につながるわけではない」と主張。「唯一の被爆国だからこそ、3度目の核攻撃を受けないために核武装するべきではないか」と呼びかけた。
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 やや内容が少ないので、東京新聞(共同通信の配信記事のようです)も引用しましょう。

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田母神氏が広島で講演 「被爆国として核武装すべき」
2009年8月6日 19時58分
 原爆の日の6日、政府見解の歴史認識を否定する論文を公表して更迭された田母神俊雄前航空幕僚長が広島市で講演し、「唯一の被爆国として、3度目の核攻撃を受けないために核武装すべきだ」と主張した。
 日本会議広島が主催し、演題は「ヒロシマの平和を疑う」。参加者は講演に先立ち君が代を斉唱し、黙とうした。
 田母神氏は「2020年までの核兵器廃絶は夢物語」と、秋葉忠利広島市長の平和宣言を批判。「核保有国同士は相手からの報復を恐れるため、先制攻撃は絶対にしない。国を守るため、日本も核兵器を持つべきだ」と持論を展開した。
 秋葉市長は6月に「被爆者や遺族の悲しみを増す結果になりかねない」として、日程の変更を要請。県内の被爆者7団体も7月、連名で抗議文を送ったが、田母神氏や主催者は「表現の自由だ」などと応じなかった。
 会場周辺では、田母神氏の主張に反対する横断幕を掲げ、シュプレヒコールを上げる団体と、右翼の街宣車が言い争う一幕もあった。
(共同)
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「市長以上に核廃絶を願っている」という日本会議の主張がどのようなものなのか、講演内容からはっきりわかります。この記事では出て来ませんが、昨日の公演で田母神氏は、「核廃絶など絶対にできない」と断言したそうです。

 今回の問題は、単に講演会の開催にとどまるものではありません。当ブログではたびたび指摘していますが、田母神氏や日本会議、そしてその周辺に巣食う国会議員や櫻井よしこ氏などの「ジャーナリスト」たちのような、「人の痛みがわからない想像力が欠落した人物」がどんどん増殖しているように思えることです。小泉元総理、麻生総理、石原慎太郎東京都知事、橋下大阪府知事、東国原宮崎県知事など、人を傷つけることに無神経な人物をトップに選んでしまう、この国の民の問題でもあるのです。

 こうした人たちは、核廃絶を願う心からの叫びを理解する能力はありません。そして、傷ついた人を思う気持ちも、それを理解しようとする能力も持っていません。こういう連中がいなくなる、少なくとも選ばれなくなる日が来るのでしょうか・・・

2009年7月16日 (木)

本日の「怒」090715/難しい問題ですが、拙速な感じは否定できません。論点をもっと明確にすべきでしょう/臓器移植法案について


 臓器移植法案(いわゆるA案)が成立しました。(成立の経緯や審議された各案の概要をご存じない方は、Wikipediaの項目「臓器の移植に関する法律」をご覧下さい。)この問題はあまりにも難しいので、実は避けていたのです。思うことはたくさんあるので、これを機会にあれこれと書いてみようと思います。

 臓器移植法案が成立したことの「明と暗」は、朝日新聞の7月13日付の記事がよくわかります。

 共産党以外の各党派が「各人の倫理観の問題である」として党議拘束をかけなかったため、衆参両院での採決は同じ政党の中でもかなり大きく割れました。自民党は賛成が7割、公明、民主党は4割ほどでですが、社民は全員が反対、共産は棄権、という大まかな結果です。

 現状の臓器移植の状況が不正常であることは明らかです。「外国へ出かけてお金にものを言わせて臓器を買う」という批判が国際的に強いのは事実ですが、臓器移植しか方法がなく国内での移植が望めないのであれば、どんなことをしても自分の愛する人に生きるチャンスを作りたい、という気持ちは十分に理解できます。きれいごとを言うつもりはなく、私でも同じことを望むように思います。しかし、こうしたことが現地の方の生きるチャンスを奪っていることは確かです。

 もちろん、臓器を提供する側の問題もあります。朝日の記事のようなケースもあるでしょうし、予想される問題はもっとたくさんあるでしょう。脳死と判定されてしまうと、移植に同意しないと非難を受けるような風潮が出てきてしまうことも容易に想定されます。「早く諦めなさい」というプレッシャーは、大切な人を失いそうになっている人たちにとって、大きな精神的ダメージを与えてしまうでしょう。もっと怖いのは、身寄りがないすれすれの患者に対して、医療サイドが臓器提供のために(言葉は悪いですが)「手を抜く」ようなことも起こりかねないことです。

 問題とされている「子どもの脳死判定」以外にも、私はいくつかの疑問を抱えたままです。

● 移植法案に消極的な意見が根強いことの原因のひとつに医療機関の問題はないか

 こうした問題が解決されるためには、医療の現場にも高い倫理観が要求されます。もちろん、大部分の医療従事者が毎日身を粉にして患者のために働いていることは十分に承知しています。しかし、医療の現場では患者を置き去りにして平気な医者や医療機関が存在していることも、医療過誤訴訟などを見ていると否定できません。私もそうした「無責任な」医療機関の実態に触れてしまった経験がありますので、現在の日本の医療体制の中で「安心して」移植を推進する意見を持つことはとてもできないのです。

 都内のある有名大学病院では、最近まで訴訟を起こした患者(ないし家族)がカルテのコピーを取る時に、法外な値段(1枚200円とか500円とか)を取っていました。実際に自分でもこうした現場を経験して、あまりのことに絶望的な思いをしました。一昔前まではコピーなど絶対にさせなかったのですから、それでも「進歩」なのかもしれません。しかしこの大学病院、絶対に「自分のところが悪かった」とは言わない「有名な」ところです。こんな病院で「初めに移植ありき」の扱いを受けたら、と思うとぞっとします。

 移植法案(A案)を推進する立場である日本移植学会の声明をご覧下さい

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「臓器の移植に関する法律」改正の決議に対する声明 (09年6月18日)

日本移植学会理事会

  本日、衆議院において、「臓器の移植に関する法律」の改正案A案が採択されたことについて、日本 移植学会の見解を述べさせていただきます。
  はじめに臓器移植法の改正について、このたび衆議院で審議され、改正案A案が採択されたことにつ いて、日本移植学会として敬意を表します。またご尽力いただいた多くの方々に深甚なる謝意を表しま す。
 さて、現行法が1997年に施行されて以来、善意と崇高な意思に基づいた81件の脳死後の臓器提供が 行われ、移植を受けることができた患者さんの多くが健康を取り戻しました。しかし現行法のもとでは、 脳死下での臓器提供は年間10例前後に限られているため、移植によってしか救命できない多くの患者 さんが移植を待ち望みながら亡くなられています。一部の患者さんは、小児、成人にかかわらず、やむ なく海外での移植に生きるための最後の望みをかけざるをえないのが実状でしたが、今やその道も閉ざ されつつあります。
 このような状況下で現行法の改正は、臓器不全との絶望的な闘いを強いられた多くの患者さんおよび そのご家族にとっては、生きるための唯一の望みであり、文字通り悲願であったとも言えるでしょう。 これまで日本移植学会は、関係学会、患者団体とともに、本法のA案への改正を繰り返し要望して参り ました。
  今回衆議院でA案が採択されたことは、移植によってしか救命しえない、そして移植を待ち望む多く の患者さんとそのご家族にとって一筋の光明であることは確かですが、この法案が制定されこれらの患 者さんを救命するためには参議院における採択が不可欠です。参議院におかれましても、「自国民を自 国内で救う」べく、速やかにA案が採決されることを強く要望します。
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 こうした視点からの議論はたくさんなされてきました。しかしここには、医療従事者が患者に対して与えてきた「苦悩」に対する思いやりはありません。「いや、我々は常に患者のことを考えている」と言われるかもしれませんが、少なくとも「個人」ではなく「学会」としての声明である以上、医療の現場に対する不信感を少しでも払底しようとする努力がなされるべきです。しかし、残念ながら移植学会のHPのどこを見ても、そうした視点での積極的な見解はありません。

 医療従事者に遠慮があるのか、こうした意見を目にしたことはありません。しかし、誰も言い出さないことではあっても、背景に「医療に対する不信感」が存在していることは間違いないと思います。移植を推進するのであれば、こうした点をクリアする努力がどうしても必要であると思うのは私だけでしょうか。

● 有権者としては自業自得とはいえ、こんな政治家に任せて良いのかという疑問

 国会の論戦(というほどしっかりした議論がなされた様子は残念ながらありません)の中では、「どちらがよいか」という点と、「子どもの脳死判定が難しい」ということだけしか見えてきませんでした。移植法案を通すことに対して切実な思いを持っている人たちの気持ちも、移植法案によってかえって苦しめられるのではないか、と恐怖を感じている人たちの恐れも当たり前にあることです。しかし、政治家にも大きな問題があります。それは、「人の痛みがわからない」政治家があまりにも多いからです。もちろん、こうした政治家を選んでしまう有権者の側の責任は大きいですが。

 人の痛みがわからない政治家は、「何故こんなにたくさんいるのだろうか」と絶望的になるほどです。ちょっと思いつくだけでも、「強姦するやつは元気があって正常」「売春ツアーはODA」「従軍慰安婦は有償ボランティア」「原爆はしょうがない」「女はやっぱり視野が狭い」「日本は単一民族」「近頃の若い人は努力がたりない(から子どもを作れない)」「教員が鬱病になるのは気が弱いからだ」「女は子どもを産む機械」「ホームレスも糖尿病(になるように豊かな時代)」「アルツハイマーでもわかる」「医師のモラルが低下したこと(でたらい回しで妊婦が死んだ)」「格差が出ることは悪いことではない」などと、人の痛みがわからない政治家の発言が次々に思い出されます。

 相反する「痛み」がぶつかり合う形になってしまった今回の臓器移植法案の審議が、こうした「痛みのわからない」政治家どもの手にかかっていることに、大きな違和感を持たざるを得ません。

● 死生観を押し付けられることへの恐怖

「脳死が人の死であるかどうか」という根本的な問題についても、私は二つの疑問を持っています。ひとつは「法律的な線引きと死生観の違いを同一視してしまうこと」であり、もうひとつは「死生観や遺族の感情に対する配慮にバイアスがかかってしまうこの国の現状」です。

 社会が法的安定性を維持するためには、「法的な死」が定まっていることが必要です。しかし「死生観」は、法律が関知できない「個人の良心」とのぎりぎりの部分だと思います。臓器移植法案に反対する人たちの中には、根源的な部分で「法律的に死ではあるが、移植を拒むことができる」という法案の議論の立て方に、どうしても相容れないものがあるのかもしれません。

 もうひとつの問題は、ある意味で簡単であり、ある意味でやっかいです。現象的には解決策が見つかる可能性がある問題が多いのですが、実は日本人が「個人の価値観の違いを認めない」というやっかいな問題を抱えていることが根源にあるからです。例えば、3月3日のエントリー「宗教的な自由とは」で取り上げたように、個人の価値観に基づいた宗教的な自由を認めないことがあります。特に取り上げた判決は、「政治が宗教の自由より優越した」例であり、もっともあってはいけないことです。

 テーマがやや異なりますが、カトリック教会が聖職者に対して裁判員の「辞退」を勧めています。現状の日本では認められない(当然、罰金を課されることになる)とは思いますが、裁判官への就職そのものを禁じているカトリック教会の信徒にとっては、裁判員になることは堪え難いことであるはずです。イタリアやドイツのように「宗教的良心的忌避」が認められている国と異なり、日本の場合は「個人の良心に対する配慮」がないのです。

 こうした背景を考えると、死生観を「政治がおしつける」ことの怖さを感じてしまうのです。

 とにもかくにも、法案は成立してしまいました。あとはこの法案がどのように運用されるのかを、注意をもって見守る必要があります。そして、「法案が成立したから議論は終わり」ではなく、これからも実施された事例を踏まえながら議論を深めて行く必要があると思っています。

2009年1月28日 (水)

日本の取るべき進路について6/きちんと「懲り」ましょうよ/政府の役割その4・・官僚組織について


 官僚機構の行政能力、という点では、日本の官僚組織は世界の中でもずば抜けて能力が高いと思います。こういうことを書くと「あれ?」と思われる方も多いでしょう。ヒントは「官僚の能力」ではなく「官僚組織の能力」であり、「政策立案」ではなく「行政遂行」だ、ということです。

 社保庁の年金管理について考えてみましょう。年金の管理は、組織ぐるみでの改ざん、隠蔽が長い間行なわれていました。それにも関わらず、何兆円も使ってさまざまな施設を作り、手当を支払ってきました。経済成長がとまり人口の減少が始まって、これまで行なって来た「ボロ」が明るみに出てしまいましたが、組織としては実に巧妙に動いて来たことがわかります。自由に使えるお金を作り、クレームが表沙汰にならないように、組織として一丸となって動くことについては、とても上手に運営されて来たのです。

 いわゆる「天下り」も、日本の官僚組織の能力の高さを示しています。組織の一員として最後まで面倒を見る、そのためには若い間は、それほど高くない給与で、上に立つものの言うことをきいて、人の倍働く。そうした組織としての生命維持装置を上手に作り、維持して行く。そういうことも、組織としての優秀さを示しています。このことは、長い間官僚をやって来た人が議員になった時に、「1人では何もできない」ことでハッキリとわかります。日本の官僚組織は、「組織を育て維持する」ことには長けていても「人を育てる」発想がないからです。そもそも、こうした組織に「人を育てる」意識などあり得ない、と喝破した人は少なくありません。古くから「官僚定数増大の法則」や「カクテルパーティーの法則」を発表したパーキンソンなどはよく知られています。

(注)もう知らない人の方が多いでしょうから、「パーキンソンの法則」について少し説明しましょう。パーキンソンの法則は、イギリスの歴史学者シリル・ノースコート・パーキンソン(1909-1993)が1958年に発表した「Parkinson's Law」で説かれたもので、たっぷりと皮肉を利かせながら、組織や社会の法則を提示しています。日本では、1960年代に翻訳されて出版され大いに注目されました。主に第二次大戦中の海軍省や植民地省の統計を元にパーキンソンが「発見」したもので、有名なものは「役人定数増大の法則(役人は仕事の量に関係なく一定の割合で人数が増える)」というものです。一般的には「仕事量は与えられた時間を満たすまで増大する」「支出は必要に応じるのではなく収入を満たすまで増える」という二つの法則を指しますが、それ以外にも「中間派の法則(ものごとを決めるのは強い意思を持った人たちではなく、どちらにでもなびく中間派であり、重要なのは座席配置である)」「凡俗の法則(支出を決めるためにかかる時間は、支出する額に反比例する)」「ある組織が立派な建物を建てるときはその組織のピークであり、それから先は凋落する」「カクテルパーティーの法則(カクテルパーティーで重要な人ほど、遅れて来て早く帰る。そのときの人の流れは時計回りである)」「委員会の最適な定数は5だが、人数はしばらくすると膨張し、実際には委員会の中に委員会ができて一部の人によってことが決せられるようになる」などの、示唆にとんだ法則を発表しました。実際の社会(政府や国連など)をみていると、「にやり」としてしまうものが多い、現在でも意味を失っていないものだと思います。パーキンソンの法則は、直接的に官僚の能力に触れているわけではありませんが、組織体がどのように動くかということについてとても鋭い指摘をしています。ちなみに、比較的平易な英語でかかれているので、英語を鍛えたい方は原書で読んでみることをおすすめします。

 組織として決定した政策を遂行する能力は、個々の官僚の能力とは全く別に、ある種の「滅私奉公」ができるかどうかにかかっています。こうした点で、日本の官僚組織はとても優秀なのです。

 私はかねてから、「公務員の給与を倍にすべき」という持論を持っています。「とんでもないことを言う」と思われるかもしれませんが、ことの本旨は「公務員の給与が安い」というところにあるのではありません。「公務員にもきちんと責任を取らせるべき」と考えているからです。公務や政策の誤りで責任を取った公務員を、私は寡聞にして知りません。こうした「無責任体制」ができるのは、組織体としてしか機能しない官僚組織の問題点だと思うのです。

 もちろん、前提とすることはたくさんあります。まず、特殊法人などの天下り機構を完全に解体すること。そして、天下りも完全に規制すること。公務についたものが次の職を組織から与えられるのは、とてもおかしなことだと考えます。特に、公務員としての職務と関係がある会社や業務に退職後につくことを禁止します。「職業の自由」との兼ね合いが問題にされるかもしれませんが、「そのための高い給料だ」と言い切ってしまいましょう。再就職は、自力で見つけていただくのです。そして、公務員全体の人員も徹底的に見直します。必要のないところはばっさりと、必要なところには手厚く、ということですね。

 このようなことを考えるのは、実際にいろいろなことを見聞きして来た経験からです。働かない天下り役人に馬鹿高い給与や退職金を払い続けている特殊法人は論外ですが、小さなところでもおかしなことはたくさんあります。例えば、私の住んでいるところでは、公共施設の受付などが嘱託職員によって行なわれています。この嘱託職員は、ほとんどが公務員OBです。一方で、シルバー人材センターのお年寄りが働いていた施設は閉鎖されたり、「競争」という名目で公務員OBがいる人材派遣会社が仕事を「奪ったり」しています。公共施設の受付にOBを使っているのは、「住民サービスの経験がある方が望ましい」ということだそうですが、実際はと言うと、仕事は遅い、クレームは上に伝わらない、態度は横柄など、とても「住民サービスの経験」を活かしているとは思えません。地域の施設を使っていると、シルバー人材センターから派遣された地域のお年寄りとの交流ができたりしていたのですが、他の場所から廻って来た公務員OBでは、そのような「地域活性化」からも遠ざかります。これも、公務員の天下り(退職後の就職斡旋)の実態なのです。

 居酒屋タクシーで話題になった中央の官僚にしても、忙しい理由には首を傾げざるを得ないことも多いのです。キャリア官僚は、予算編成時や国会の会期中はとても忙しい。なぜかというと、国会の審議の「面倒を見ている」からです。野党の質問用の資料を官僚が作り、政府側の答弁資料を官僚が作る。それも、日常業務以外ですから、大変です。キャリアの友人も「仕方ないけど、会期中は呼び出しもあって大変」と言っていました。言い方は悪いですが、こんな茶番のために時間とお金が浪費されているのですね。

 公務員、特にキャリアについては、さまざまな問題があります。そのひとつは、若い間に人の上に立つ習慣を身につける慣習です。20年ほど前にかなり批判され、以前ほどではなくなったようですが、まだ存在します。何の経験もないキャリアが、何十年も働いて来たノンキャリアの上に立つことで「自分は偉い」と思わせる仕組みですね。特に、今現在40代以上の人たちは、そうした経験を「たっぷり」経ています。(今でも覚えているのは、大学時代にとても温厚な良い先輩だったあるサークルのマネージャーが、10年ほどしてお会いした時にまるで別人になっていたことです。絶対に人を見下したりしない人だったのに・・・)

 私が「公務員の給与を倍に」と主張しているのは、こうした問題をすべて解決することが前提です。パーキンソンの法則に従えば(苦笑)人員の無駄は相当な数になるでしょうから、人員削減も可能。給与を倍にして、半分(でも3分の1でも)は退職金として積み立てる。問題を起こせばもちろんそれは没収。現在でも「安くない」公務員の給与ですが、倍になれば相当勤労意欲は上がるでしょう。こうしてやる気のある人たちをきちんと組織する。退職後は、その経験を生かして「ご自分で」道を見つけていただく。年金の四階部分はもちろんなくしますが、きちんと勤め上げれば充分な退職金があてにできます。そんな方向を漠然と考えているのです。

 まぁ、できっこないでしょうね。

2009年1月24日 (土)

日本の取るべき進路について5/きちんと「懲り」ましょうよ/政府の役割その3「受益者負担という名の責任放棄」


「受益者負担」という言葉をよく聞きます。本来は、公共事業の結果、利益を受ける人と受けない人が出る場合に、利益を受ける人が一定の額を負担することを言います。よく使われるのは、上下水道の整備です。上下水道を引く場合に、その対象となる家(や集落)が一定の額を負担することを指すものです。

 この「受益者負担」という言葉、非常に安易に、曖昧に使われるようになりました。「サービスを受ける人はそれに対して対価を払って当然」という感覚が生まれやすいからでしょうか、いたる所で見かけるようになりました。いわば「サービスを受けるなら金を払え」という脅し文句のひとつです。ローカル線の値段が高いことも、障害者が授産施設で働くための「料金」を払うことも、「受益者負担」という言葉で正当化されてきました。では、一体、政治や公共の役割とは何なのか。現実には、社会が経済合理性だけ、利益/効率優先で運営されたらどうなるか、ということは、前回のエントリーで述べました。この「経済合理性」での政策運営を正当化するために、「受益者負担」という言葉が濫用されているのです。

 政府の役割、社会の仕組みそのものには、さまざまな見方があります。それは否定するものではありません。しかし、「弱肉強食」「勝ったものが偉い」という、ある種の「欲望にまかせた社会」が正しいと思っている人がどのくらいいるのでしょうか。ホリエモンのように、はっきりと「儲けたもの勝ち」と言い切ってしまうことは、ある意味では凄いことです。普通の人たちは、心の中でそう思っていても、「人間としての恥」が、そのように言うことをためらわせるからです。「お金のないやつは、そいつが悪い」「出世しないやつは能力がないだけ」「体が動かないやつは無能」と言ってしまうことが「恥ずかしい」と思うからです。これは、動物的な本能からは外れたものです。ある意味で、ホリエモンやアメリカ人の多くが持っている価値観は、非常に「動物的」なのだとも言えます。

 少し話がそれましたが、「受益者負担」に戻りましょう。この言葉を私流に正しく定義すると、「生活するための最低限のサービスを超える部分で公共サービスを受ける時に、サービスを受けるものが一定の負担をすること」だと思います。

 一例を挙げましょう。いわゆる「ハコもの」のことです。

 私は仕事柄、公共施設(ホールや会議室など)を比較的よく使います。こうした施設は、市民(区民)の税金で作られたもので、住民の生活向上に資するための施設です。しかし「なくてはならない」ものではありません。実際に、抽選でとれないときには民間の施設を使うこともあります。ただし、民間の施設は総じて高いので、公共施設に人気が集中します。こうした施設を使う時に払う「使用料」は、まさに「受益者負担」です。「税金で作ったものだから納税者はタダで使わせるべき」という議論もあるようですが、私はその見解には与しません。施設を使う人と使わない人の差が大きすぎるからです。

(注)実際の公共施設の運用方法には、不満がたくさんあります。実際に税金を払った市民(区民)の利用が、まったく関係ない人たち(団体)の利用と同一であることも少なくありませんし、料金の設定にも首を傾げざるを得ないことが多いからです。

 これに対して、基本的なインフラについては「受益者負担」という言葉を使うのはいかがなものか、と思います。実際には、下水道の整備について、実際にサービスを受ける人たちがある程度の負担をしなければならないことが多く、「受益者負担」という言葉も、これについて使われていることが多いようです。赤字を垂れ流すハコもの、空港、港湾設備などを作る余裕があるのであれば、こうした生活に密着したインフラを優先的に公費でまかなうべきだと思うのです。

 このことを拡張すると、交通や通信、郵便局、病院などの施設も、生活に必要なインフラだということがわかるはずです。こうしたものは、経済合理性を全面に打ち出して運用してはならないものであり、政府(や地方公共団体)の存在意義ですらあると思うのです。地方の鉄道が「儲からない」のは当たり前、人口の少ないところの通信インフラのコストが高いのは当たり前、地方の病院が赤字になるのも当たり前、なのです。こうしたところにこそ、効率よくお金を投入すべきなのです。

 しかし、現実は反対方向に進んでいます。郵便局は民営化され、過疎地の郵便局が100単位で実質的に閉鎖されました。年金を下ろしに行くのに、(路線バスも廃止されたので)タクシーで何千円もかけなければならない、という人が増えています。第二東名高速道路に何兆円も使う一方で、ローカル線、第三セクターの鉄道、バス路線、と順々に廃止の憂き目に遭っている過疎地が増えています。ほとんどの人が携帯を持っている新宿駅地下にはずらーと並んでいる公衆電話は、地方に行くとどんどん撤去されています。厚労省の「中央集中化、医療の効率化」政策のために、地方の病院の多くが経営難に陥り廃止されています。(そんな政策を採っていない、と言われるかもしれませんが、こうなることははじめから予想されたことです。)障害者は、使用料が払えずに授産施設から次々に追い出されています。「応益負担」という言葉は、まさに「受益者負担」そのものです。障害者に「サービスに見合った料金を払え」などという政策を採っている先進諸国は、日本だけです(アメリカですらやってない!!!)。このような政策を強力に押し進めて来た、自民党と公明党の責任は重いと言わざるをえません。

 書いてきたような現実を直視すると、受益者負担という言葉がどのように使われて来たか、ということがよくわかります。これが、中曽根政権から小泉政権までの30年間に行なわれて来た「政府の仕事」なのです。

2009年1月17日 (土)

一番必要な景気対策は何か/珍しく、テレビからネタをいただきました


 昨日、珍しく仕事が早く終わったので、家で少しゆっくりしました。普段ははやくて10時、遅いと11時くらいからテレビのニュースをつけるのですが、初めて日本テレビの「太田光わたしが総理大臣になったら」という番組を見ました。テーマは「給付金を国民1人当たり30万円にする」というものでした。

 じつは、こうした意見に近いものを取り上げている識者がちらほらと存在します。ネットニュースやウエッジ(だったとおもう・・)で、「10万単位でないと意味がない」という主張を目にした記憶があるのです(時間がもったいないので具体的な記事はたぐりませんが)。出演していた政治家(ゆかりたんや猪口さん、大村さんなどの顔が見えました)や「評論家」(金美齢さんがいましたねぇ・・)が言っていることは、ほんとうに馬鹿らしくて見ている気にもならなかったのですが、「太田総理」は裏に思うことがあるようで、政治家や反対側の人たちとの論戦はなかなか見応えがありました。わかりきったことを繰り返す下手な国会討論より面白いですね。

 さて、太田総理のマニュフェスト、私も反対ではありません。ただし、景気対策としてもっとも必要なものかどうか、という点については疑問があります。一度きりの給付金が及ぼす経済効果は持続しない可能性が強いからです。給付金は、生活困窮者や失業者のための対策に限度を限って行なうべき性質のものでしょう。

 一番必要な景気対策は、「老後の安心」です。日本には1300とも1400兆円ともいわれる個人資産があります。なぜこのように個人資産が積み上がり、少しでもお金に余裕があれば貯金や保険に回すかと言うと、「老後の安心がない」ことが最大の理由であるとおもうのです。こうしたお金のうち何割かが消費に廻れば、その効果は絶大です。

 従来、経済の専門家は「個人資産を投資に廻るように預貯金から株式投資などにシフトさせるべき」と主張してきました。私はこうした考え方に反対です。リスクが伴う投資は、「安心」のプラスアルファであるべきだと思うからです。ですから、預貯金が「投資」ではなく「消費」に廻るような施策を考えるべきだと思うのです。

 もちろん、実現するためにはとても多くの問題が積み上がっていることは理解します。しかし、40年間払い続けても毎月6万しか年金がもらえない(25年間なら4万ちょっと)人たちがどれだけ存在しているのか。毎年60万以上の保険料を払わなくては保険診療を受けられない自営業者。そういう状況にある人たちは、今、安心してお金を使うことなど決してできないのです。年金額も利益も多い大企業のサラリーマンは別にして、厚生年金ですら安心できないケースも出ています。こうした人たちが「安心してお金が使える」ための施策が必要だと思うのです。

 給付金は、老後の安心とセットでないと、その効果は限定的になってしまうのです。

2009年1月14日 (水)

日本の取るべき進路について4/きちんと「懲り」ましょうよ/政府の役割その2「何が政府の役割なのか」


 近年の「構造改革」「規制緩和」という言葉の使われ方には、非常にいびつなものを感じてきました。その理由は、「現状の政府がやっていること」と「改革/規制緩和をした後」とを対立構造と捉えた議論になっているからです。「現状はこうだ、だから規制緩和しなくてはならない」という議論になっているのですが、実は規制していることそのものが問題なのではなく、規制の仕方や中身が悪いことも多いのです。規制=悪、規制緩和=善、という、アメリカ流の単純な善悪論に陥っている過ちは正さなくてはなりません。

 そもそも政府が何故存在するのか、何をするために必要なのかを考えてみましょう。この連載の1で述べた通り、人間の欲求や欲望は「現状を下回らない」ことを最低限にしてさらに上を目指します。これを全部満足させるためには、経済価値のあるものが無限に増大し続けなくてはならないのです。政府の役割は、まずこの「人間の欲求」の調整にあります。「好き勝手をやれば自分(や自分に関係がある人、組織など)の利益だけを増大させようとする」人間の行動を調整する役割を果たすのです。

 こうした「調整役」として長い間人間社会に「君臨」してきたのは、宗教です。非難を覚悟で書きますが、私のような無神論者に取っては、宗教も所詮人間の活動が作り上げた所産です。ですから、当然、人間の欲求に対する問題点を解決しきることはできないのです。そのことは、キリスト教の歴史を見れば一目瞭然です。中世までの歴史の中でカトリック教会が堕落したのは、堕落させた人間の個人的な問題ではなく、宗教そのものが人間が作り上げたものに過ぎないことの証明でもあります。もちろん、世界にはたくさんの宗教があり、宗教的価値観/倫理観にすべての人が正しく従ったとしても、宗教同士の矛盾は解消されません。「キリスト教だけが正しい」と思っていると、ブッシュ/アメリカのように、アラブ人をどれだけ虐殺しても痛痒を感じない精神が出来上がるのです。

 宗教的価値観がすべての人の利害関係を調整することができないことを学んだ人類は、歴史の中で宗教から独立した「調整機関」を作り上げてきました。それが政府の根本的な役割です。

 私は、政府の役割はこの本義に立ち戻って判断すれば良い、と考えています。サービスを全部民間で行なえば、儲からないところには決して行き渡りません。その場合に、政府自体がそのサービスを請け負うのか、儲けを出している民間企業にそれを義務づけるのかは、いろいろな方法があるでしょう。どのような政策にお金を使うかは、この役割を果たすために効果的な方法を採るべきだと思うのです。

 話がとても抽象的になってしまいました。少し具体化してきましょう。具体的な事業を例にして、政府の役割を考えてみます。取り上げるのは、公共交通機関/インフラです。

 経済的な合理性で交通機関の整備を考えれば、利用者が多いところに集中して投資することが正解です。企業の論理で言えば、儲からないところからは撤退するのが理にかなった行動でしょう。事実、莫大な赤字を抱えた国鉄は(無意味に)解体され、儲からない路線は次々に廃止されてきました。一方で、利用者が少ない場所で無意味な道路に投資が続いています。「地方に道路は必要」という現実を拡大して、「地方には道路を造るという仕事が必要」にすり替えられているのが現状です。正反対に見えるこの二つの現象をどのように捉えて方策を考えるか、ということがここでの問題提起です。

 経済合理性、とひとことで言っても、その意味することや出てくる結果は一通りではありません。一例を挙げれば、日本とイギリスの運賃の考え方には、正反対の「合理性」が働いています。日本では、正月や夏のシーズンは、新幹線の割引回数券が使えなくなり、航空運賃が上がります。イギリスでは、(航空運賃は同じですが)サマーシーズンの旅客が多いときは、鉄道の運賃は割安になります。(ただし、20年ほど前の経験です。今はどうか知りません。)繁忙期に値段を上げれば、利益が大きくなり、高い料金を避ける意識が働いて利用が標準化する、という効果があります。これは「会社側の論理」です。一方で、繁忙期は混雑してサービスが悪くなるのだから値段はそれに見合うように下がって当たり前、というのが「利用者の論理」です。

 日本の鉄道料金には、このような「経済合理性」とともに、「ローカル線は高い」という逆(利用者が少ないところが高い)の結果も生じています。これは、「儲からない路線は値段を高くしないと見合わない」という「会社側の論理」です。ローカル線は、本数が少なくサービスも悪いにも関わらず、利用者から見たら高い運賃を払わねばならないのです。「受益者負担」という言葉で正当化されている論理でもあります。

 このような「対立する利益」を調整するのが、政府の役割です。このことは「資本を自由に振る舞わせれば幸福値が最大になる」という新自由主義の誤りをはっきり示しています。新自由主義、規制緩和、民間移譲などの言葉で言われていることを極限まで追求すれば、「値段の高い田舎には住むな」という「合理主義」に行きつくのです。「田舎に生まれたから悪いのだ。反省したら都市にでてこい」という理屈に聞こえてしまいます。これは「スラムに生まれてものし上がる自由があるアメリカは素晴らしい」という思考構造とよく似ていると思いませんか。

 公共交通機関の役割を考えたとき、政府は交通機関単体での「経済合理性」を考えるだけではダメなのです。ということは、交通機関単体の民間企業ではできないことがある、ということも言えるのです。

 日本の戦後史を振り返ってみると、公共交通機関が政治に振り回されて来たことがよくわかります。旧国鉄は、第二次大戦後の引揚者を労働者として引き受けることで、いびつな就労者の構造を抱え込みました。そして、政治家によって無理な路線延長と不採算路線を押し付けられました。(我田引鉄、という言葉をご存知の方は、もう少なくなったと思いますが。)結果として累積した赤字を、政治家は誰も責任を取ることなく、「国鉄の組織が悪い」として解体されたのです。

 その後は、道路で同じことが起こっています。モータリゼーション(ああ、死語だ)の高度化とともに鉄道の役割が減少すると、政治家は道路を引っ張ることに熱意を向けました。さらに、高速化や新幹線、空港、港湾といった交通インフラが無秩序に作られてきたのです。「昭和の三馬鹿査定」という言葉が大蔵省の主計官によって語られたのは1980年代後半のことだったと思いますが、それ以降も「四馬鹿、五馬鹿」が連発されています。神戸空港でびっくりした私にとって、静岡空港や茨城空港は悪い冗談としか思えません。

(注)昭和の三馬鹿査定とは、大蔵省の主計官の「戦艦大和、伊勢湾干拓、青函トンネルが昭和の三馬鹿査定だ。整備新幹線を認めたら4つめになる」という発言でできた言葉です。個人的には、青函トンネルは除いても良いのではないかと思いますが、静岡空港や全国に無駄に作られている立派な港などは、これに負けないくらい「お馬鹿な」査定だと思います。

 仮に、最初からローカル線を鉄道以外の方法で何とかしようとしていたら、初期の段階で優先的に本当に必要な道路整備ができたかもしれません。交通行政が、さまざまな利益を調整する方向に働いていれば、いまのようないびつなことにはなっていなかったのではないかと思います。この点については、政治家の責任が大です。利害調整ではなく、利益誘導ばかりを行なって来たからです。

 次回は「受益者負担」という言葉について、少し考えてみたいと思います。

2008年12月26日 (金)

本日の「怒」081226/これが対策? 雇用促進住宅の実態


 今朝のNHKニュースで、雇用促進住宅の斡旋についての話題が取り上げられていました。職を失った人たちから13000件以上の申し込みがあり、成立したのは1割しかない、という内容でした。NHKにしては珍しく、リポーターが「今やらなくてはならないことが何かを考えてほしい。明日から9日間、役所関係は全部閉まってしまうが、目の前の1人を救うために休日も窓口を開けるような対策をとってほしい」という注文をしていました。

 当ブログの11月10日付のエントリー(http://do-do-do.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/index.html)で、全国で140万とも言われる「空き家」を利用するように求めましたが、雇用促進住宅が「役に立たない」のは、ある意味で当たり前なのです。

 雇用促進住宅はもともと、炭坑の閉鎖に伴う離職者を主な対象として広がりました。厚労省のHPを見ると、東京都にある雇用促進住宅の数にくらべて、例えば福岡県がとても多いことがわかります。つまり、地域の偏在が大きいのです。「離職者に対して充分な数の雇用促進住宅がある」と政府は強弁していますが、ニーズに合っていない単なる数合わせに過ぎません。また、離職者の「次の仕事」を考えた時に、現在ある雇用促進住宅が相応しくないことも明らかです。

 さらに言えば、離職者が寮を追い出されることを防いでも、次の仕事には役に立たないことの方が多いのです。政府は、雇用を切られた労働者が寮に住み続けられるように補助をするようですが、こうした補助は「とりあえず雨露をしのぐ」ことにはなっても、生活を再建するためには役に立ちません。多くの場合、このような寮は「首を切った」企業の近くにあります。大きな工場になればなるほど、地域がその企業に依存している割合が高く、離職者が新たな仕事を見つけられる可能性は限りなく低いのです。職安や面接に通うために多額の交通費が必要になれば、それすらままならない人が続出するでしょう。

 雇用促進住宅や離職者の寮は新しい仕事が見つかりやすいところに存在しない、という現実を、東大出身を中心とした優秀なわが国の官僚が知らない(気づかない)はずはありません。それなのに、「住宅対策はすでに行なっている」と政治家が言い切るのは、官僚が政治家に数の報告しかしていないからでしょう。それが意図してなされているのであれば、寒風吹き荒む中で凍えていく労働者に対して、官僚が興味を持っていないことの現れです。

 もう一度繰り返しますが、雇用対策には首都圏を中心とする「職場が見つかりやすい」ところにある空き家を有効利用すべきです。離職者の寮を「新たな空き家が見つかるまでの」限定で利用し、その後、職を見つけやすい地域の空き家に優先的に移れるような対策が緊急に必要です。


2008年12月 6日 (土)

本日の「怒」081206/そして次はどこに広がるのか・・・人ごとではなくなるとき


 かつてナチスドイツは、体制に抵抗する共産主義者や社会主義者を弾圧し、アーリア人至上主義を唱えてユダヤ人を虐殺し、最後にキリスト教会に対しても攻撃を加えました。そのときに神学者や宗教者が遺した有名な言葉があります。

「はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。
そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。」

 なぜこんな古い言葉を引っ張り出したかと言うと、昨日の朝のニュースを見ていて思い出したからです。放送されていたのは、派遣労働者の集会とデモでした。デモの横断幕には、「おれたちはモノじゃない」と書かれていました。この言葉で私が思い出したのは、20年以上前に山谷や釜ヶ崎で日雇い労働者たちが上げていた叫びです。

 高度成長期には、建設現場などで働く日雇い労働者が貴重な労働力として重宝されましたが、80年代になると、その役割と社会的な位置に変化が生じました。日雇い労働者は「貴重な戦力」から「労働力の調整弁」になったのです。一方で、一定以上の収入がある家庭が増え、社会的階層として日雇い労働者たちを「見下す」意識が強くなっていきました。山谷や釜ヶ崎の話をすると「怖いところ」と多くの人が感じていることを知ったのもこの頃です。

 実際にこうした「寄せ場」に行ってみると、そこに暮らす人々はさまざまです。そして、仕事が激減する夏や寒さのために路上で凍死する人がでてしまう冬場には、ボランティアの若者がたくさん集まり、労働者と一緒に過ごしました。ここで出て来た言葉が「俺たちはモノじゃない」というものでした。

 最近の様子は知らないのですが、当時は労働者は外の世界から隔絶されているかのような存在でした。仕事を持ってくる「手配師」(多くは暴力団関係者)たちは、貴重な給与をピンハネし、労働者を搾取していました。当然、トラブルも多かったのですが、警察官がかけつけると、必ず暴力団関係者の味方となりました。雇用はもちろん不安定で、仕事がないと1泊数百円のベッドに寝ることさえままならない人も多かったのです。

 ここまで読んで、冒頭のキリスト者の言葉とのつながりが理解できたでしょうか。

2008年11月19日 (水)

本日の「怒」081119/国民の安全を守る意思のない国だから・・・


 昨日付の東京新聞の記事を、まずお読みください。

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じん肺札幌訴訟で国が和解せず 判決確定、周知で時効主張
2008年11月18日 21時26分
 北海道の炭鉱で働き、じん肺になった患者が国に損害賠償を求めた札幌地裁の訴訟で、4月に提訴した33人のうち9人について、国が和解に応じず「筑豊じん肺訴訟最高裁判決で国が加害者と確定し、周知されてから3年以上が経過した」などとして、時効による請求棄却を求める方針であることが18日、分かった。
 国は、じん肺で重い症状が出てから3年以上が経過しても提訴しなかった患者については、今後提訴しても和解せずに争うという。
 原告の太田賢二弁護士は「国はじん肺被害者の救済制度をつくらず『裁判したら金を払ってやる』という対応を続けており、時効を主張するのはおかしい」と批判。原告は21日の弁論で国に反論する。
 民法では、加害者と損害を認識した時点から3年間が経過すると時効が成立する。
 国は2004年4月の筑豊じん肺訴訟判決で、損害賠償請求の相手となる加害者が国であることが確定し、1年間を“周知期間”と考慮しても、今年4月の提訴時点では計4年が経過し十分な期間があったと主張。
 9人については、和解の適用基準となる重い症状が出てから3年以上が経たため、和解には応じないとした。
 国は、最高裁判決確定から3年以上経過した07年7-11月に提訴した約300人には時効を主張せず、和解に向けた協議を進めていた。北海道では12月にも約30人が追加提訴する予定。
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 もう、何も言いたくありません。原告代理人弁護士の批判が全てです。薬害エイズ、ハンセン病、原爆症の認定・・・厚生省(厚労省)の興味が向いていると先は、国民の安全ではありません。国の態度は、過払い金を払い渋るサラ金と同じです。嗚呼。

2008年11月12日 (水)

報道とネットと若者の意識の危機/田母神問題から見えるもの


 田母神前航空幕僚長が国会に招致されました。問題発言を繰り返していた田母神氏ですが、その確信犯ぶりがはっきりと示された発言に、さすがに驚いた方も多かったと思います。私が一番危機感を持ったのが、「Yahooの調査では58%の人が私を支持している」と発言したことでした。実際に、ネットの特定の場所でアンケートをとれば、そういう結果が出る可能性はありますが、その結果だけが一人歩きするようになると、怖い社会がやってくるような恐れを感じます。

 ネットの「世論調査」がどれだけ怖いかを、例を挙げて説明してみましょう。

 J-CASTニュースという、ネットでは比較的「大手」のニュースサイトがあります。CEOの蜷川真夫氏は朝日新聞でアエラの編集長も歴任した方ですが、何故か読者は2チャンネルの常連さんたちのような反応をする人が多いのです。今回の田母神氏の問題でも、100ほどついているコメントのほとんどが、田母神氏に好意的なのです。ここでアンケートをとれば、58どころではない数字が出るでしょう。一方で、News for the People in Japanという「市民が作る」ニュースサイトでは、田母神氏の発言に否定的なものがほとんどです。(各紙の社説:http://www.news-pj.net/siryou/shasetsu/2008.html#anchor-kuubakuchou ここには産経新聞などが入っていませんね)ネットでは、自分が意思表示をする場を選択できますから、ある種の偏りが生じることは不思議ではありません。そうした結果を利用して自己の評価を「思い違い」してしまっているのか、意図的に利用しているのかはわかりませんが、ネットでの意思を持った人たちの行動をもって正当化することは、とても恐ろしいことです。

 今朝の私の最初の行動は、新聞各紙の社説を見ることでした。こうした歴史認識に関する問題では、概ね「産経、読売」対「朝日、毎日」という構造になるのですが、今回は違いました。読売新聞の社説が、まるで朝日か毎日か、というタイトルで始まっていたからです。

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前空幕長招致 「言論の自由」をはき違えるな(11月12日付・読売社説)
 つい先月末まで自衛隊の最高幹部を務めていた人物とは思えないような発言が相次いだ。
 田母神俊雄・前航空幕僚長は参院外交防衛委員会での参考人招致で、終始、「我が国が侵略国家というのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)だ」などとする自らの懸賞論文の内容を正当化しようとした。
 「私の書いたものは、いささかも間違っていないし、日本が正しい方向に行くために必要だ」「日本には、日本の国が悪かったという論が多すぎる。日本の国は良い国だったという見直しがあってもいいのではないか」――。
 昭和戦争などの史実を客観的に研究し、必要に応じて歴史認識を見直す作業は否定すべきものではない。だが、それは空幕長の職務ではなく、歴史家の役目だ。
 自衛隊員に対する愛国心教育は必要としても、過去の歴史を一方的に美化することを通じて行うことではあるまい。
 田母神氏が身勝手な主張を続けることは、むしろ防衛省・自衛隊が長年、国際平和協力活動や災害派遣で地道に築いていた実績や国内外の評価を損なう。
 集団的自衛権の行使や武器使用権限の拡大など、安全保障上の課題の実現も遠のきかねない。
 こうした冷静な現状分析を欠いていること自体、自衛隊の指揮官としての適格性のなさを露呈していると言わざるを得ない。
 田母神氏は「自衛官も言論の自由が認められているはずだ」「自由な議論も出来ないのでは、日本は民主主義国家か」と、「政府見解による言論統制」を批判した。
 「言論の自由」を完全にはき違えた議論だ。一私人なら、日本の植民地支配や侵略を認めた村山首相談話と異なる見解を表明しても、何ら問題はなかろう。
 しかし、4万5000人を率いる空自トップが政府見解に公然と反旗を翻すのでは、政府も、自衛隊も、組織として成り立たなくなってしまう。政治による文民統制(シビリアンコントロール)の精神にも反している。
 空自では、同じ懸賞論文に、隊員94人が組織的に応募していたことが判明している。田母神氏の指示はなかったとされるが、徹底した事実関係の調査が必要だ。
 自衛隊幹部は、軍事的知見や統率力に加え、高い見識、広い視野とバランス感覚が求められる。
 防衛省は、自衛隊の幹部教育や人事管理を抜本的に見直し、検討中の省改革の計画に的確に反映すべきだ。それが国民の信頼回復につながる道だ。
(2008年11月12日01時49分  読売新聞)
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 かねてからの読売新聞の主張である「集団的自衛権の行使」を阻害することにもつながるから、という理由づけは読売新聞らしいのですが、田母神氏の発言に対してここまではっきりと否定的な社説が載るとは思っていませんでした。言い方を変えれば、「読売新聞ですら危機感をもつほど、田母神発言は文民統制を危うくする危険なものである」ということでしょう。

 朝日、毎日の社説の全文は引用しませんが、ほぼ予想通り。朝日社説が、毎日が取り上げた防衛大学長のコラムを引用しているのが目につきました。「問題が表面化した後、防衛大学校の五百旗頭(いおきべ)真校長は毎日新聞のコラムでこう書いた。「軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することは……きわめて危険である」「軍人は国民に選ばれた政府の判断に従って行動することが求められる」五百旗頭氏は歴史家だ。戦前の歴史を想起しての、怒りを込めた言葉に違いない。」(ここまで引用)(各紙の内容は、NPJの各紙社説のリンクでご覧下さい)日経もかなり強く田母神氏を問責し、防衛庁の体質に危惧を表明しています。「昨年夏、守屋武昌防衛次官は小池百合子防衛相から退任を命じられ、首相官邸に駆け込んで抵抗した。田母神氏の行動は、それと重なる。いつからこんな危険な空気が防衛省には広がったのだろう。」(ここまで引用)

 こうしてみると、ネットの論調と新聞各紙の判断にこれだけ乖離があることがわかります。もちろん、新聞各紙の判断が世論を代表しているとは即断しませんが、読売、日経の社説とネットに積極的に書き込む人たちとの間の乖離は注目すべきことでしょう。

 これに対して、先ほどのJ-Cast Newsにコメントを書く層に近い判断をしているのは、産經新聞です。

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【主張】田母神氏招致 本質的議論聞きたかった

 先の大戦を日本の侵略とする見方に疑問を示す論文を発表したとして、航空幕僚長を更迭された田母神俊雄氏が、参院外交防衛委員会に参考人として出席し、更迭の経緯や文民統制に関する質疑が行われた。
 しかし田母神氏の発言はあらかじめ制限され、質疑は懲戒処分とせずに退職させた防衛省の責任に集中した。安全保障政策や歴史観をめぐる自衛隊トップの発言がどれだけ許容されるのか、論文内容のどこが政府見解や村山富市内閣の「村山談話」に抵触し、不適切かといった議論は素通りした。
 本質を避ける政治の態度が、憲法論や安保政策のひずみを生んできたのではないか。
 委員会の冒頭、北沢俊美参院外交防衛委員長は「参考人が個人的見解を表明する場ではない」と指摘し、質問に対する簡潔な答弁だけを認める方針を示した。このため、田母神氏が論文の真意や歴史認識についてまとまった考えを示す機会は失われ、答弁の多くは浜田靖一防衛相が立った。
 このような委員会運営となった背景には、田母神氏に持論を展開する場を与えたくない与野党共通の思惑もあったとされる。
 政府は田母神氏を更迭する際にも本人に弁明の機会を与えなかった。政府見解や村山談話を議論することなく、異なる意見を封じようというのは立法府のとるべき対応ではない。
 田母神氏は、論文で示した見解は今でも正しいと考えており、政府見解や村山談話を逸脱するものではないと主張した。理由の一つとして「村山談話は具体的にどの場面が侵略だとまったく言っていない」と指摘し、政府見解による言論統制への反発も示した。政府や与野党議員はこれに十分反論できただろうか。
 政治の軍事に対する統制は確保されなければならず、田母神氏が部外への意見発表の手続きをきちんととらなかった点は問題だ。ただ、集団的自衛権を見直すなどの本質的な議論を制限することがあってはなるまい。
 この問題を契機として、民主党は自衛隊の統合幕僚長や陸海空幕僚長の4人を国会同意人事の対象とする考えを打ち出した。何を基準に人選するのか。歴史観など思想統制につながるものなら許されない。政府・与党にも事態収拾の一環として導入を検討する動きがあるが、慎重に対処すべきだ。(産經新聞081112)
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 この社説の内容で驚くべきことは、シビリアン・コントロールに関する記述が「政治の軍事に対する統制は確保されなければならず、田母神氏が部外への意見発表の手続きをきちんととらなかった点は問題だ」と、単なる手続き論にすり替えられていることです。問題を「自衛隊内部での言論の自由」に矮小化し、その自由がないから有効な防衛力や安保政策を立てられないのだ、という議論になっています。産經新聞の社説の名前通り、まさに「主張を通すための論点のすりかえ」を行なっていることがわかります。(それにしても、反戦自衛官の問題のときには、確か「組織の統一を危うくする言論を持つことの危険性」を訴えていたような気がするのですが・・・気のせいかな?)

 こうした論法は、マスコミによく登場する政治家や有名人がよく用います。代表格は橋本大阪府知事でしょうか。「産經新聞だけが唯一のまともな新聞だ」とはっきり言う姿勢は2チャンネルやネットでの支持が高いのです。橋本知事のような、論点をずらしたり論理をすり替えたりすることによって自己を正当化するアジテーターへの支持が、ネット以外でも増えているような気がするのは杞憂でしょうか。特に、本を読むことをやめてマンガやゲームに浸っている若者の中に、論理の破綻を見抜けなくなっている人が増えているのではないかという危機感を持ってしまいます。

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