2015年7月17日 (金)

「戦争法案」のこれから・・・お粗末極まりない国会審議

「戦争法案」のこれから・・・お粗末極まりない国会審議

 戦争法案が衆議院を通過した。予想されたことだが「強行採決反対」と叫ぶことには、大きな抵抗がある。安倍政権を選んだ国民の一人として、こうなることはわかっていた訳だから。しかし、国会審議がここまでお粗末なものになるとは思っていなかった。もう少し、「確信犯的な」答弁があるのではないかと思っていたからだ。

 今回の法案が憲法の想定する範囲にないことは、おそらく、自民党や公明党の議員でも少々法律をかじったことがあればわかっているはずだ。だからこそ、国会での論戦で、政府与党は「いかにごまかすか」に終始した答弁を繰り返した。それをだらだらと流すマスコミの影響か、論点は曖昧になり、やりとりが論理として成立することが全くなかったのである。

 いわゆる「ニュースワイドショー」のコメンテーターも、(確信犯的な賛成派は除いて)、「議論をそもそも論から外す」という、政府与党の目論見に見事に乗ってしまっていた人が多い。「憲法違反かどうかという本質から外れた議論に終始して、どうやって日本の安全を守るかという議論をしなかった野党は何を考えているのか」という発言をしていた高木美保(テレビ朝日)さんなどは、「そもそも憲法とは何か」ということから学び直していただきたい。

 憲法問題には「砂川判決」を持ち出して「集団安全保障は最高裁も認めている。だから、今回の法案も合憲である」と強弁を続けた政府与党。砂川判決とはそもそも何を判断し、何を判断しなかったのか、きちんとした議論をすべきであった。砂川判決を見れば、集団安全保障について何も判断していないことは、法律を学び始めたひよっこの学生でもわかる。だからこそ、法律の専門家と言われる人たちは、「徴兵制も合憲である」というとんでもない発言をする「学者」や、兵器オタク上がりの大学教授くらいしか、「合憲だ」とはっきり言わないのだ。

 数日前のエントリーにあげたように、国会審議は、「自衛隊員の安全が守れるか」「このようなケースではどうなのか」という議論に終始した感がある。しかし、今回の法案は、そもそも憲法の体制下で想定されている「国を守る」こととは何か、というところをしっかり追求すべきであった。議論に派手さはないかもしれないが、その点を追求することで、安倍政権がいかに憲法を軽んじているか、ということを浮き立たせるべきであった。

 後半の参議院の審議はまだ残っている。本質を見据えた追求ができることを願っている。

2015年7月14日 (火)

安倍首相の「子どもの自尊心の欠如の原因」の大嘘

● 内閣府の「今を生きる若者の意識〜国際比較からみえてくるもの〜」(平成26年度)を正しく読み解く

 安部首相がWSJ誌のインタビューで答えていた「若者の意識」について、こんな調査が上がっているということを知っていただきたい。安部首相は「子供たちの意識調査について各国と比較した場合、日本では今、自国に対する誇りが持てないという子供たちが非常に多く、また、それが自分自身に対する自尊心が持てないという子供が非常に多いことにもつながっている。」と言っているが、調査報告からはそのようなことは全く読み取れない。むしろ、逆の問題が生じていることがわかる。自己認識においては非常にネガティブな結果が出ているが、自国の対する誇り、では、諸外国と同程度か、むしろ高くなっている。その調査結果を(どうせみんなはしっかり見ないから)さかさまに言って自分の都合の良いように語っているのである。調査自体の信憑性は、私にとっては大いに疑問があるところだが、まさか内閣総理大臣が内閣府の調査を部分的に否定しているわけではあるまい。

 この調査から見えてくる結果は、「若者は、自分自身や将来については自信がなく、意欲にも乏しい。にもかかわらず、社会規範には従い、自国に対する誇りだけは十分に持っている」ということだろう。これは何を意味するのか。

 こうした意識は、社会状況や自分の環境などから醸成される。自分自身に自信が持てない、憂鬱だ、将来に希望がない、と感じている若者が多いということは、「社会が若者にそう思わせる状態にある」ということである。それにもかかわらず、自国に誇りを持ち、自国のために何かをしたいと思う比率だけは高い。つまり、自分の現状を分析することもできず、疑問を持つこともできず、ただ単に「誇り」だけを感じて生きている若者が多いということだ。

 これこそ、現代の日本社会の最大の問題だろう。将来に希望が持てない若者たちが、現状や社会に対する正当な批判精神を持ち合わせることなく、唯々諾々と圧迫された社会で生きているのだ。こうした結果は、まさに、1970年代以降の教育の「成果」である。今回の拙稿の最初で述べたように、「考えること、知ろうとすることをやめた人を大量生産する」政策によって、若者たちが盲目的に「日本は素晴らしい国だ。自分の生活には満足できないけど」と思うようになってきているのだ。朝鮮半島の北側で調査をしたら、同じような結果になるのではないか? 批判精神を失った人が多数派になった時、権力者はなんでも好き勝手ができるようになるだろう。

 以下、くだんの調査報告である。

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(1)自己認識
1)自己肯定感:諸外国と比べて、自己を肯定的に捉えている者の割合が低い
① 自分自身に満足している
日本:45.8%
韓国:71.5%
アメリカ:86.0%
イギリス:83.1%
ドイツ:80.9%
フランス:82.7%
スウェーデン:74.4%
② 自分には長所がある
日:68.9
韓:75.0
米:93.1
英:89.6
独:92.3
仏:91.4
瑞:73.5

(2)意欲:諸外国と比べて、うまくいくかわからないことに対し意欲的に取り組むという意識が低く、つまらない、やる気が出ないと感じる若者が多い
③ うまくいくかわからないことにも意欲的に取り組む
日:52.2
韓:71.2
米:79.3
英:80.1
独:80.5
仏:86.1
瑞:66.0
④ つまらない、やる気が出ないと感じたこと
日:76.9
韓:64.5
米:49.0
英:55.2
独:44.7
仏:44.4
瑞:55.7

(3)心の状態:諸外国と比べて、悲しい、ゆううつだと感じている者の割合が高い
⑤ ゆううつだと感じた
日:77.9
韓:63.2
米:41.0
英:45.6
独:36.9
仏:38.6
瑞:42.1

(4)社会規範:諸外国の若者と同程度かそれ以上に、規範意識を持っている
⑥−1:いかなる理由があっても、いじめをしてはいけない
日:85.6
諸外国平均:ほぼ同程度(数字のデータなし)
⑥−2:いかなる理由があっても、約束は守るべきだ
日:76.2
諸外国平均:10ポイントほど高く見える
⑥−3:困っている人を見たら、頼まれなくても助けてあげるべきだ
日:74.0
諸外国平均:ほぼ同程度
⑥−4:他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ
日:41.7
諸外国平均:75程度

(5)社会形成・社会参加:社会問題への関与や地震の社会参加について、日本の若者の意識は諸外国と比べて相対的に低い
⑦社会現象が変えられるかもしれない
日:30.2
韓:39.2
米:52.9
英:45.0
独:52.6
仏:44.4
瑞:43.4

(6)自らの将来に対するイメージ
1)将来への希望:諸外国と比べて、自分の将来に明るい希望をもっていない
日:61.6
韓:86.4
米:91.1
英:89.8
独:82.4
仏:83.3
瑞:90.8
2)40歳になったときのイメージ(幸せになっている)
日:66.2
韓:81.6
米:86.8
英:86.1
独:86.2
仏:87.4
瑞:82.1
(中略)

4:自国に対する認識
(1)自国人であることに誇りを持っている:自国人であることに誇りを持っている割合は、諸外国と同程度
日:70.4
韓:59.9
米:76.2
英:72.7
独:66.2
仏:69.0
瑞:75.0
(2)自国のために役立つと思うようなことをしたい:自国のために役立つことをしたいと思っている割合は、諸外国とくらべて相対的に高い
日:54.5
韓:43.2
米:42.4
英:40.6
独:49.7
仏:44.8
瑞:53.7
(後略)

8:分析など(抜粋)
・諸外国の若者と比べ,自分の将来に明るい希望を持つことができていない。
・将来に明るい希望を持てるかどうかは,<1>自分自身を肯定的に捉えられているか(内部要因),<2>自国の将来を肯定的に捉えられているか(外部要因)が関係。
・自己肯定感が高い若者や自国の将来に明るいイメージを持っている若者は,同様に将来への希望を持っている割合が高い。(図表20)
・日本のために何らか役に立ちたいのだけれども,具体的にどのように関与できるのか,また,自らの社会参加により具体的に社会を変えられるのかについては確たる意識を持つことができていない。
・自らの参加により社会現象を少しは変えられると考える若者は,自国のために役立ちたいという思いが強い。

2015年7月13日 (月)

(5)戦争法案に邁進する安倍政権の精神構造

(5)戦争法案に邁進する安倍政権の精神構造

 安倍政権は、なぜこれほど性急に憲法違反の戦争法案の成立を目指しているのだろうか。自民党や公明党の幹部は、「近年の中国の覇権主義や北朝鮮の挑発で我が国の防衛体制を整備する必要がある」「国際的な行動する平和を目指すために必要だ」と繰り返しているが、果たしてそれは真意だろうか。

1)法案の成立を目指すのは中国の脅威とは何ら関係ない

 経済的に大国としての自信をつけつつある中国は、近年になって外交政策も大きく転換しているように見える。尖閣諸島の問題しかり、南シナ海の問題しかり、である。しかし、中国は外交政策を「転換」したのではなく、「経済的にアメリカに伍するようになったらこうするぞ」という長い計画の元に動いているのだ。日本のような場当たり的な外交政策ではなく、中国には将来を見据えた戦略があると考えるべきである。そして、我が「優秀な」外務官僚が、そうした中国の意図を見抜けないはずはない。安倍首相にとっては、自分が政権に返り咲いた時に、中韓両国との緊張関係が増したことは「待ってました」なのだ。

 民主党の野田政権が尖閣諸島の問題処理で大失敗してから、日中間の緊張状態が高まったことは事実である。しかし、それを根拠に「安全保障法案が必要だ」と説明する安倍首相の論拠は、完全に崩れている。安倍首相は「2014年のスクランブル回数は10年前の7倍に増えている」と、日中間の緊張がすぐにでも偶発的な戦闘行為に結びつくような言い方をしているが、2004年以前は、2014年と同程度のスクランブルが当たり前にあった。スクランブルの回数について言えば、1990年台までは毎年600から900のスクランブルがあったのが、2000年台になって100から300へと減少。それが、2013年(すなわち野田政権が尖閣諸島を国有化してから)急増して、安倍内閣になった2014年には900回を超えたのである。中国が一定程度抑制的であることは、海上では挑発を繰り返しているように見えても、領空侵犯を一度も犯していないことでもわかる。つまり、野田政権と安倍政権によって「作られた」緊張状態の結果がスクランブルの増加につながっただけであり、それを「スクランブルが増えたから危機だ!」と叫ぶ安倍首相は、まさにマッチポンプだと言えよう。

 野田首相が中国に大恥をかかせ(中国人は恩を忘れない。と同時に怨も忘れない)、安倍首相が日本の軍事化を明確に進める姿勢を示している以上、中国政府はそれなりの対応を取るだろう。今回の日中の緊張関係は、まさに「外交の失敗」なのである。まさに「ABCD包囲網が出来上がったので日本の南方進出は国家防衛のための正当行為」だと言い張るのと同じなのだ。もちろん、中国が拡大主義に走っていることは明確に警戒すべきことだが、それは国際社会と連帯して外交の力で解決を目指すべきものであって、日本が「戦争準備をしています」と宣言することで解決することは決してない。

 安倍首相が繰り返している「戦争法案の必要性」とは、(1)数百発に及ぶ北朝鮮のミサイルと核武装、(2)尖閣諸島問題や南シナ海を始めとする中国の海洋進出、(3)スクランブルの回数が10年前の7倍に増加し緊張が高まっていること、(4)ISILなど国際テロの脅威が高まっていること、を挙げているが、これがどれもためにする議論であることは明らかである。北朝鮮に核ミサイルで日本を直接攻撃する能力があるはずもなく、対中関係も日本が「戦争ができるぞ」という姿勢を見せれば、こじれることはあっても解決する問題ではない。国際テロの脅威に至っては、中東で自衛隊が戦闘に加担すれば、さらに危険が高まるだけである。

 安倍首相は、何が何でも「普通の国」にしたいのだ。それは、強いものが勝つ弱肉強食の社会であり、自国の利益のために戦争ができる国である。

2)安倍首相が戦争法案に邁進する原動力は、その幼稚な歴史観と社会認識にある

 安倍首相の「本音」を聞き出すことは難しい。公式には問題を起こさないように気をつけた発言をするからだ。複数の発言を比べると、その矛盾、二枚舌ぶりが明らかなると同時に、「公式の」発言でも、その論理の短絡さ、幼稚さと事実から目を背ける駄々っ子ぶりは明らかである。

 例として、ウォール・ストリート・ジャーナルのインタビュー記事(http://jp.wsj.com/articles/SB12468361420061044368104580605443145601072)を見てみよう。

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 WSJ:日本の第2次大戦時の印象を一部正さなければならないとよく話しているが、なぜ2015年の今、この日本の歴史上の記録について語ることが重要なのか

 安倍首相:私は、先の大戦に対して、何か世界の人々の考え方を変えようというつもりは全くない。私がなぜ歴史について語るかと言えば、それはまず今年が戦後70年の節目であるということ、そして私から語らなくても、再三国会でこのことについて質問されるということだ。私は繰り返し、繰り返し述べているが、先の大戦に対する歴史認識としては歴代の内閣の歴史認識を全体として受け継いでいるということだ。
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「歴代の内閣の歴史認識を全体として受け継いでいる」という安倍首相の発言に対して、2013年の国会答弁を比べてみよう。

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 特に、侵略という定義については、これは、学会的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろう、と思う。それは、国と国との関係においてどちらから見るかということにおいて、違うわけだ。そういう観点からも、そういう談話においては、そういう問題が指摘されているのは事実ではないかと思う。(歴史認識問題で「村山談話」に対する認識を問われた質問に対して)
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「村山談話」から該当部分を抜き出してみる。

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  わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
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 さらに「小泉談話」からも引用する。

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 また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。
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 村山、小泉元首相の談話では、第二次大戦での日本の侵略を明確に認め、謝罪している。「歴代の内閣の歴史認識を全体として受け継いでいる」という WSJのインタビュー記事と国会答弁は明らかに違う。矛盾したことを堂々と発言できる精神構造は、安倍首相の特徴である。どうしてこんなことを言えるのか。それは、安倍首相の歴史観が、事実の検証から積み上げられた確固たる「見識」ではなく、「こうだったらいいなぁ」という、幼児に似た非論理的なものだからだ。こうした「信念」がなぜ生まれたのか。それは、議論を積み重ね、熟考して自らの考え方を創り上げるのではなく、「イイコイイコ」されて批判精神もなく、耳触りの良いことだけを受け入れてきた結果ではないかと思う。だから、内閣も「お友達内閣」になるし、自分の応援団は何をしても許してしまうのだ。

(いわゆる「自虐史観」攻撃や従軍慰安婦問題に対する「日本は悪いことしてないもーん」という主張も、こうした「お子ちゃま」の発想である。その点については、次項で詳述する。)

 歴史観の幼稚さを示す一例が、やはり2013年の国会答弁だ。

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憲法の前文に、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した』とあるが 、自分たち国民の安全・命を他国の人たちの善意に委ねていいのか、このこと自体を疑問に思わない方がおかしい、というのが私の考え方だ。やはり、こうした仕組みを基本的に変えていくことによって、われわれは、真の独立の精神を取り戻すことにつながっていく、とこう信ずる。
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 誰に吹き込まれたか知らないが、「自主憲法」と叫ぶ人たちの決まり文句でもある。「憲法前文は単なるコピペ」「他国を疑うところから自国の安全が守られる」などと叫ぶ人たちである。前文の言い回しや内容が、さまざまな人権文書と似通っているのは、それが「自由」「独立」の原理なのだから当たり前のことだ。それを問題にするなら、民主主義の原理から遠く離れた前文にするしかあるまい。そして、この前文を「自分の命を他国の善意に委ねる」と読むところに、まずもって読解力のなさ、国際関係の理解の欠如が現れている。さらに、真の独立精神とは何か。そしてそれはどのように醸成されていくものなのだろうか。このあたりは、少々長い文章になりそうなので、項を改めて論じる。

 再び、WSJ誌のインタビュー記事に戻ろう。

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 WSJ:首相は自虐史観に基づく教科書について言及し、過去に日本が果たし役割について、あまりにもマイナス面が強調されすぎていると主張している。日本の過去にばかり焦点が当てられるがために、日本が普通の国として機能しなくなっている。そう考えているのか

 安倍首相:歴史の教科書については、バランスが必要だと考えている。例えば、1986年に(当時の英首相)サッチャーが教育改革を行ったとき、英国でも過去の記述について英国の光の部分と影の部分、このバランスを取らなければならないという方向性に大きく変わった。
 子供たちの意識調査について各国と比較した場合、日本では今、自国に対する誇りが持てないという子供たちが非常に多く、また、それが自分自身に対する自尊心が持てないという子供が非常に多いことにもつながっている。
 私が言いたいのは、あくまでもバランスであって、歴史には光の部分もあり、影の部分もあるということだ。そして、日本という国について、この国を形作ってきた長い歴史の中における営みについて、さまざまな側面からその営みを知ることが大切だと考えている。

 WSJ:日本人にとって、今までの歴史の教えられ方が、その誇りを失わせる方向に動いたと考えているのか。だとすれば、それのどこが問題なのか

 安倍首相:戦後70年の教育については、そのような傾向が見られていたのは事実だろう。これは、例えば、全ての人がということではない。先ほど言ったように、調査の中で自分自身に自信を持てないと答える人がいること、いわば自尊心の欠如につながっていったのは事実だ。それは、まさに自分自身を主張できないということにもつながってく。海外に出て行って、外国の子供たちと議論したとき、自分の国を語れないということにもつながっていく。
 その中において、例えば、さまざまな改革を行うことについても、消極的な姿勢になるということにつながっていく。したがって、現在改革を行っているが、農業における改革、電力における改革、企業における改革、働き方の改革、そういう改革に対して、非常に慎重になるという性格あるのではないか。
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 この部分、実際に多くの子どもたちと接してきた人なら、強烈な違和感を覚えるだろう。子どもたちに自尊心がないのは、自国に対する誇りが成長を全く理解していない勘違いである。安倍首相が根拠にしている調査は、おそらく内閣府の「今を生きる若者の意識」だと思われるが、これについては別項でまとめる。部分的に引用しただけで、調査自体の全体は無視しているだけでなく、その原因についても勝手な推論を述べているだけである。

 この他にも、安部首相の発言を見ていると、その歴史観のあまりの幼稚さに驚かされることが多い。

2015年7月12日 (日)

戦争法案の目指すもの

(4)戦争法案の目指すもの

1)憲法とは何か

 憲法調査会に自民党が呼んだ長谷川恭男早大教授が、「安保法案は憲法違反」と述べたことは記憶に新しい。その後の政権の発言を見ていると、「アノヒトタチ」の性格がよくわかる。石原慎太郎元東京都知事や橋下徹大阪府知事、そして、安倍首相と菅官房長官には、大きな共通点がある。それは「自分の言っていることは正しく、反対するものは馬鹿だ」という断定である。

 これまでの発言を見ていると、橋下市長だけは少し性質が違うかもしれない。「あ、相手の方が正しいぞ」と思ったのではないかと見える瞬間があるように見えるからだ。彼は、そんな時に土俵を替えてしまう術を心得ている。だから、議論が強引に見えるのだが、多くの人はそれにだまされる。しかし安倍政権の中心メンバーは、橋下市長ほどの判断力も知恵もない。ただ、自分の考えを繰り返し絶叫するだけである。

 そもそも、憲法とは何か。

 自民党の面々の中には、「憲法が政治家だけを縛るのはおかしい。国民も従うべきだ」という趣旨の発言を繰り返している国会議員もいるようだが、できれば小学校からやり直してほしい。この法案(菅官房長官の言には反するが、真面目に憲法を考えている憲法学者でこの法案を「問題なく合憲」という人はいないだろう。さすがに恥ずかしくて言えないはずだ。「合憲だ」という主張をする学者もいるが、「徴兵制も合憲」というレヴェルの「とんでも学者」のみである)が憲法に抵触するということすらわからないのは、そもそも憲法が何かということがわかっていない、に尽きる。

 憲法とは、本来的に権力を制限するものだ。もちろん、北朝鮮や中国、エジプト(で検討されているもの)などの基本法は、「権力を守り国民を縛る」ために存在する。なぜこれらの国が国民を縛るための基本法を持っている(ないし作ろうとしている)かというと、国民を縛ることによってしか権力が存続できないからだ。国民の自由を認めれば、権力者が権力を失うことが明らか(ないしは、権力側に自信がない)だからこそ、このような基本法を作る。こうした基本法は、「憲法」という名前がついていようがいまいが、歴史的に形作られてきた「憲法」とは全く性格が異なるものだ。権力は、その力が強くなればなるほど暴走する。これは歴史が証明している。その権力に対して、非力な民衆が対抗しうる唯一の根拠が憲法だ。つまり、憲法とは必然的に「権力を制限する」ためのものなのである。

 日本の憲法に対しては、さまざまな議論がある。「押しつけ」論もそのひとつ。しかし大切なのは、その内容と本質である。憲法は、自由と権利意識がなかった日本人に、民主主義と平和主義を「教えた」教材であるとも言える。

 日本ほど憲法を「おざなり」にしてきた国家はない。 何十年も政治を見続けていると、憲法の「解釈」が都合良くねじ曲げられてきた歴史がよく見える。上記のような「独裁国家」ならいざ知らず、一応、民主主義らしきものが機能している国でこれほど憲法が弄ばれているのは極めて珍しい。そこには、二つの大きな問題がある。ひとつは、国民の「憲法が自分たちのもの」という意識の欠落と、違憲立法審査権の不在である。

 市民革命や独立戦争を経た民衆には、「自分たちの権利は自分たちで守る」「他者の権利を認める」という、民主主義のイロハが身に付く。日本は、不幸にしてこうした経験がなく、はっきり言うと民主主義に対する感覚的な理解がない。それが、今回のような政府の暴走を招いているひとつの原因だ。それでは、「憲法の番人」となるべき最高裁はどうか。

 違憲立法審査権は、最高裁自らが実質的に放棄している。統治行為論を最高裁が積極的に認めてしまえば、政府の(ないし国会の)暴走を止めることはできない。わかりやすく言えば、現在までの最高裁の判例に従えば、戦争をするためのどんな法律を作っても、その法律によって実際に戦争が起こり、そのために被害を受けた人が発生して初めて、その法律が憲法に適合しているかどうかを最高裁が判断することになる。つまり、最高裁は、法律自体が憲法違反であっても「おら知らね」なのだ。このことが、憲法を弄ぶ勢力にとってどれだけ都合の良いモノであるかは、少し考えればわかるだろう。

 一昔前、尊属殺が違憲とされた時にも、国会(自民党)は刑法の改正に消極的だった。「家族の価値観や親、先祖に対する敬意を奪うトンでも判決」とのたまう議員もたくさんいた。違憲判決から実際の法律の改正までに20年以上かかったことは、いかに国会が憲法を軽く見て来たかがわかる一例だ。選挙制度についても同じことが言える。何度「違憲状態」という判決が出ようとも、既得権益をなくす可能性がある選挙制度改革には、自民党は頑として応じない。センセイ方の憲法に対する意識がよく表れている。

 菅官房長官などは、「憲法を解釈するのは学者ではなく政治だ」とのたもうているが、とんでもない話である。政治家が憲法を自由に解釈してしまえば、憲法が本来持つべき権力の抑制機能が働かなくなる。安倍首相は「徴兵制は憲法が禁止している苦役にあたるのでできない」と(本音ではなかろう)いう答弁をしたが、これとて「合憲だ」と主張する学者が存在する(といっても、私は一人しか知らないが)。「苦役」の解釈を変更すれば、そのうち徴兵制も議論のテーブルに上がるだろう。

 憲法9条に関しては、これまでも「解釈改憲」を繰り返してきた歴史がある。国家が自衛権や交戦権を持っているのは当然だが、憲法は侵略の歴史の反省に立って、交戦権や戦力の保持を禁じていたはずである。それが、次第に「自衛権はある」「自衛のための戦争はできる」「他国の戦争でも後方支援なら許される」と、だらだらと「できること」の範囲が広げられてきた。そして今回の法案である。

 憲法を権力者がおもちゃに出来る国に未来はない。それだけは明らかだ。

2)憲法に対する理解のなさ、戦争法案のデタラメさは自民党の議員の報道に対する姿勢からも明白だ

 6月26日のTBSの報道にこんなものがあった。

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 安倍総理に近い自民党の若手議員が初会合を開きました。この中では、安全保障関連法案に対する国民の理解が進まない現状について、報道機関を批判する意見が相次ぎました。
 初会合にはおよそ40人の自民党の若手議員が参加しました。出席者によりますと、安保法案に対する国民の理解が進んでいない現状について、講師として招いた作家の百田尚樹氏からは「政治家は国民に対してアピールが下手だ」との指摘がありました。

 その上で、沖縄県の地元新聞社が政府に批判的なことについて、百田氏は「あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と述べました。

 また、安保法案を批判する報道機関について議員からは、「マスコミを懲らしめるには広告料収入を減らすようにする」「不買運動するのを働きかけて欲しい」などとの意見が出ました。(26日01:00)
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 ことのついでだが、百田氏のドンデモぶりは、産経が詳しい。「新聞社を潰せ」と平気で宣うなど、文章をものする者として恥ずかしくはないのだろうか。天に向かって唾を吐くとは、まさにこのことだろう。

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 「文化芸術懇話会」で、講師として招かれた作家の百田尚樹氏は、沖縄県の地元紙について「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」と述べた。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の同県名護市辺野古への移設計画などに厳しい論調を展開していることを念頭においてのものとみられる。「あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば、目を覚ますはずだ」とも語った。(産経ウェブ)
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 さすがに、今回の発言については、日経以外の主要紙は(読売ですら!!)問題視している。もちろん、産経はスルーであるが(3日目にようやく社説で触れているが「政権与党の自覚を持て」というもので、発言の本質を問題視しているのではない)。慌てた自民党は、党の青年局長を更迭するようだが、発言の内容が多くの自民党議員の「本音」であることは、これまで安倍政権が行ってきた「マスコミへの圧力」を見れば歴然としている。

 安倍政権が暴走を始めてから、政権や自民党の報道に対する圧力は凄まじいものがある。自分にとって都合の悪い報道がなされると「変更報道だ」とわめき、圧力をかける。ジャーナリストが存在しない日本のマスコミは、首相官邸の圧力に恐れおののいて「報道自粛」をしている。ネットで見かける記事が、新聞やテレビで全く報道されていないことも少なくない。そのうちに、ロシアのように都合の悪い報道をするジャーナリストは「いつの間にかいなくなって」しまうかもしれない。昨今の自民党の振る舞いは、そんな恐れすら感じさせる。日本人の多くは、中国での報道規制やネットの規制を「自由がない非民主主義的なもの」と感じているはずだ。しかし、直接的な検閲をしなくても「都合の悪い記事を配信したら、放送免許を取り上げればよい。広告を出さないように、経済界に圧力をかければよい」と考えている自民党の面々に、憲法を語る資格はない。

 報道の自由とは何か、今一度問いたい。マスコミが錦の御旗にしている「不偏不党」とは何か、もう一度見直したい。悲しいかな、ジャーナリストと呼べる人がいないマスコミだが、それでも、国民に対する影響力を考えれば、それが憲法を「生かす」ためにはとても大切なことなのだ。

(追記)語るに落ちる百田氏の反論のお粗末さ
 百田氏が、ウェブSPA(7月9日)上で今回の発言について反論をしている。やや長いが、一部を引用する。
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百田:正確にいきたいんで……(と、当時の会議録を起こしたデータを鞄から取り出し)、あの二紙に関することで喋ったのは、以下の言葉です。
「私も沖縄のこのふたつの新聞社がめっちゃ頭にきてね、本当。目の敵にされててね、ホンマ、この二紙は潰さなあかんのですけど」
 これが正確な言葉です。活字ではニュアンスは伝わりませんが、笑いながら言っています。その場にいた全員も当然冗談と受け取っていて、どっと笑いが起きたほど。
しかも、沖縄の二紙に関しての話はそれで終わり、以降は私も含めて誰もこの二紙について何ひとつ話題にしていません。そもそも国会のような公の場ではなく、自民党本部ビルというプライベートな場所で行った発言ですし、会の主催者と記者との間で「書かない」という取り決めがあったにもかかわらず、盗み聞きされて世に出た話ですから、「言論弾圧」と騒がれるのは心外なことこの上ない。「言論弾圧」というのは、公権力や暴力組織が不当な圧力で言論を封殺することを言うわけで、一民間人である私にそんな力がありますか? 街のオッサンが「朝日新聞潰せー!」とクダ巻いてんのと一緒の話ですよ。憲法第21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と書いてあるわけで、私的な場所ではどんな発言をしても許される。私が自民党の勉強会で言ったのは「冗談」ですが、仮に本気で言ったとしても、それは言論の自由で許される話なんです。ところが、今の騒ぎを見る限り、私的な会合で発した言葉も密告され、次々と処刑台に送り込まれた、スターリン時代のソ連のような怖さすら感じますよ。(以下略)
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 百田氏は、自民党の勉強会に講師として呼ばれているわけであり、相手は国会議員である。おっさんが飲み屋でくだを巻くのとは根本的に違う。権力を持った国会議員相手に、冗談であっても言うべきことではない。そんなことすらわからないのは、百田氏が、「阿部ちゃん」とお友達で、権力を振るうことに対して鈍感になっているからだろう。確かに言論の自由はある。法的に百田氏の発言が問題にされることはない。問題は、国会議員相手にこのような発言をする百田氏の意識なのだ。そして「密告」という言葉を使っているとこにも、百田氏が「権力麻痺」していることがわかる。国会議員は、政治的な発言に重みがある。しかも、当日の「オフレコ」発言は、マイクでがんがん外に聞こえる状態だったという。百田氏や議員たちが外にいる記者に「脅しをかけた」のは明らかだ。
 この「オフレコ」発言、最初に報道したマスコミがどこだかわからないが、そもそも「オフレコ」で政治家と癒着している政治部記者たちから比べると、多少はまともな記者がいたということか。「本音が聞けなくなるから」と、オフレコの発言や政治家との「癒着飲み会」を繰り返してきた日本のマスコミの政治部記者たちの習性を知っているからこそ、百田氏も議員たちも、こうした発言を記者に聞こえるように言おう、という感覚にもなるのだろう。

3)憲法改正論がまともに見えてくる昨今の自民党議員の発言

 自民党の重鎮、高村正彦衆議院議員が、憲法学者の「戦争法案は違憲である」という指摘に対して「学者の言う通りにしていて平和が守れるのか」と発言したとか。高村氏は弁護士でもあるが、一体どのような勉強をしたのか、はなはだ疑問である。

 民主党の枝野幹事長とは、こんなやりとりがあった。

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 枝野幸男・民主党幹事長が「高村さんは、司法試験に受かる程度の憲法の勉強はしたと思うが、それ以来憲法学者のように憲法をずっと勉強してきたのか」というようなことを言っていた。私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある。枝野さんがあまり考えてこなかったからといって、他の政治家がそういうことを考えてこなかったと速断するのはどうかと思う。(朝日新聞などの取材に)
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 この自信は、一体どこから湧き出てくるのだろうか。「憲法の法理は勉強していないが最高裁判決の法理は勉強した」というくだりは、一体何を言いたいのだろうか。それほど最高裁の判決(この場合は「砂川判決」)を後生大事に強調したいのであれば(それも、意図的に趣旨をねじ曲げている)、とっとと選挙制度をなんとかしてみればいかがか。

 高村氏は、「現実の国際情勢などがわからない学者などに憲法解釈をされてしまえば、国家の存立が危うくなる」ということが言いたいのだと思う。これは、菅官房長官や他の自民党有力者から聞こえてくる発言と軌を一にするものだ。しかし、思い起こせば、軍国主義化が進化する中で、美濃部達吉博士などの「戦争遂行に都合の悪い学者」を次々に切り捨てていった結果が、無謀な、そして悲劇的な太平洋戦争につながったのではないか。いわば「政治家に勝手に判断させていては、いつか来た道になってしまう」のである。

 そもそも、憲法を含め、法律の解釈が一通りであれば、世の中の争いごとの多くはなくなるだろう。同じ条文でも、さまざまな取り方があり得るのは確かである。「法律の解釈」が争われることが多いのは、ある意味で当然なのだ。しかし、だからこそ、「条文の法理」が重要なのである。勝手な解釈を許してしまえば、歯止めがなくなるのだ。

 今回の戦争法案に比べたら、改憲を主張している人たちがまともに見える。「現在の日本の憲法では戦争ができない。徴兵制もできない。だから憲法を改正すべきだ」という議論は、戦争が出来る国にするための憲法改正の是非を問わなければ、議論としては成り立ち得る。それを認めるかどうかは国民の判断である。

4)「なんとか事態」を複雑に組み合わせることで「できること」を徐々に広げていこうとする意図

 戦争法案のデタラメさは、改めて私が指摘するまでもないだろう。憲法を好き勝手に解釈し直して集団安全保障を認め、「なんとか事態」を複雑に組み合わせて海外派兵の道筋をつける。

 国会での答弁や閣僚の発言が食い違ってばかりいるのは、戦争法案に隠された意図があるからだ。この法案の一つの目的は、来たるべき改憲のために、国民に「危機意識」を植えつけることにある。

 中国の覇権主義、北朝鮮の挑発などをことさらに大きく捉えて、「ほら、戦争ができる体制にないから甘く見られてるんだ」と主張する。北朝鮮が「人工衛星」と強弁したミサイルを発射したときの、滑稽とも思える大騒ぎ(http://do-do-do.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/090405-dda1.html)を思い起こしてほしい。憲法違反であろうとなかろうと、戦争法案の最大の目的は、「常に戦時であるという意識を国民に植えつけること」である。今にも中国が尖閣諸島を占拠するかのような、北朝鮮のミサイルが飛んでくるかのような、そんな意識を持たせる。安倍政権は、今回の法案をなんとしても成立させようとしているが、その議論の中で「集団安全保障、海外派兵の根本的な是非」ではなく、「どのようにしたら憲法と整合性を保てるか、国益を守れるか」という議論が「あたりまえ」になることが最大の意図なのである。

 読売は、その意図を十分に理解して、「対案で議論せよ」という社説を載せている。つまり、「憲法問題」ではなく「安全保障をどうするか」という問題「だけ」の議論に落とし込みたいのである。

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維新安保対案 民主は批判しかしないのか
2015年07月04日 01時15分(読売社説)

 党内調整に手間取り、内容の粗さは否めないものの、野党が法案の形で対案をまとめたことは、前向きに評価できる。
 維新の党が、安全保障関連法案の対案を自民、公明、民主各党に提示した。来週、国会に提出することを検討している。
 対案は、米軍が攻撃され、これにより日本への攻撃が発生する明白な危険がある「武力攻撃危機事態」に限って、事実上の集団的自衛権の行使を認めている。
 国民生活への影響なども総合的に勘案する政府案の「存立危機事態」よりも要件が厳しい。米軍以外を防護対象にしないことを含めて、切れ目のない事態対処という観点では不十分ではないか。
 一方で、維新は、日本の安全保障環境の悪化を踏まえ、朝鮮半島有事における米軍防護などを可能にし、抑止力を高める必要性を認めている。この問題意識が与党と一致していることは重要だ。
 安倍首相も、維新の対案を「必要な自衛の措置とは何か、しっかり考えている」と持ち上げた。
 安保法案は既に衆院での審議が進み、今月中旬の採決が取りざたされる段階にある。維新の対案作りが遅すぎたうえ、政府案との隔たりは大きく、与党との修正協議が合意する可能性は小さい。
 それでも維新は、早急に対案を国会に提出し、審議を通じて安保法制のあり方を議論すべきだ。
 対案には、有事でも平時でもないグレーゾーン事態で自衛隊に警察権を条件付きで付与する「領域警備法案」が含まれる。昨年の与党協議でも検討したが、結論を先送りした経緯のある課題だ。
 維新案は、自衛隊の行動を複雑化し、かえって迅速な活動ができないとの指摘もある。どんな仕組みが最も効果的なのか、与野党で論議を深めてもらいたい。
 疑問なのは、民主党の対応だ。4月にまとめた党見解は、「安倍政権が進める集団的自衛権の行使は容認しない」とする一方、行使自体への賛否は留保している。
 政府案を「違憲」などと批判するばかりで、どんな法制を目指すのか具体案は示さない。党内の保守派議員から対案の作成を求める声が出るが、執行部は慎重姿勢のままだ。作成すれば、党内対立が避けられないためだろう。
 集団的自衛権の行使の典型例である米艦防護の必要性を認めるのか。認める場合、どういう論理と法律で可能にするのか。少なくとも、こうした重要な論点に明確な見解を示せなければ、野党第1党の責任は果たせない。
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「なんとか事態」を組み合わせ、それを議論することで「そもそも論」が消え失せてしまう。これは、議論を都合のよい方向に向けるときの定法である。「こんなケースで自衛隊を出動させたら、自衛隊員の安全が保障されるのか」という議論に夢中になれば、「そもそも自衛隊を海外に派兵することの是非」は議論の対象から見えなくなってしまう。党内にさまざまな立場を持つ民主党の国会での質問がふらついているのはある意味で仕方ないにしろ、今回の安保法制に慎重な立場のマスコミでも、議論が根本からずれてしまっているように思う。

 そもそも、今回の戦争法案は、どのように解釈しようとも、憲法の法理から逸脱していることは明らかである。亡くなった「おたかさん」なら、こう言うだろう。

「ダメなものはダメ」

2015年7月11日 (土)

この国民にしてこの政府あり、なのか(2)

(3)社会の二極化を進めることが安倍政権、否、現在の自公政権の究極の目標になりつつある

「一億総中流」と言われていた1970年代が過ぎ、バブルが崩壊してからはさまざまな形で二極化が進んでいる。現在進行している社会の二極化がさらに進むとどうなるのか、考えてみよう。

 そもそも、1970年代にも貧富の差は少なからずあったのであり、「一億総中流」は、ある意味で幻想だった。「一生懸命働けば将来は楽になる」という楽観的な見通しがあったために、「だれでも中産階級になれる」という期待がこもった「中流意識」だった。それが、90年代になると一気に変化した。バブルが崩壊した90年代以降を「失われた20年」と呼ぶことがある。なぜバブルが崩壊したのかはさまざまに研究されてきたが、それは本稿の興味ではないので触れない。ここで見極めたいのは、二極化を目指す意図である。背景には、1960年代から70年代にかけての現代史への「反省」がある。

 日本人には、独立戦争や市民革命の体験がない。そして、深刻な価値観の対立による権力闘争の歴史すらない。自由の大切さ、考えることの重要性を認識しづらいのは、歴史から価値観を構築し損ねたことも、その一因だろう。終戦後、「自由」がやってくると、それまで閉塞状態にあった「知識欲」が爆発した。学生たちは競って反権力闘争を行い、労働組合は会社や権力の本質に迫った。こうした活動は、それ自体の未熟さと権力のしたたかさで、70年代には力を失い始めたのだが、同時に「歯向かわない人間を育てる」ことが、官僚支配の目標になった。1970年代以降の指導要領の改訂は、まさに「考えない人」「歯向かわない人」作りを目指したものだ。その最終的な形が「ゆとり教育」である。考えることは、すべからく「疑問」から生まれる。「これ、何?」「どうして」などの疑問があるからこそ、さまざまな回答を考え、論理構造を作り上げていく。教育の質的変化は、疑問を持たない人を育てようとする勢力によって作り出されたものだ。「君が代を歌いなさい」「はい」という返事以外を認めないことは、思考を封殺することである。

 社会が「ご無理、ごもっとも」を受け入れるためには、こうした「疑問」は余計なものだ。余計なものを排除するために、歴史的には、恐怖による独裁政治などのさまざまな方法がとられてきた。北朝鮮を見て、民衆が思考能力を失わされていることを疑う日本人はいないだろう。そして、北朝鮮という国家が、仮に経済的に十分に富んでいれば、洗脳された民衆は権力を疑うことはない。洗脳された民衆がそれに気がつくのは、飢えや身の危険が故だ。それでは、日本ではどうすれば政権の「ご無理」を「ごもっとも」と受け入れてくれるようになるのか。

 答えは簡単である。現在の体制から十分に恩恵を受けていない人たちが「考えること」をしなくなればよい。考えるための余裕を剥奪してしまえばよいのである。

 この目論みは、経済的利益をより高めたい大企業の利害と見事に一致した。「グローバル化」という名の下に、どのような形でも収益を上げることができる体力をつけたい大企業は、最大の「ガン」である人件費の徹底的な削減を目指している。円高局面で日本の生産拠点を海外に移した企業は、円安になったからといって以前のような人件費をかけて国内に生産拠点を復活させることはできない。人件費を削らないと「国際競争力がなくなる」のだ。

 企業は利益が見込めない活動はしない。企業自体が株主のものである以上、利益をあがらないことを延々と続けることはできないのは当然である。一部の幹部候補生や特殊技能の持ち主以外はロボットにでもやってもらいたいというのが、企業の本音である。そんなところに多大な人件費などかけておけないのだ。「雇用形態の多様化」「働き方に多様性を」という美名で目くらましをして(さすがに目くらましにはなっていないが)、人件費削減のための諸法案が次々に成立している。こうして、「考える余裕がない人」が大量に生産される道筋ができあがりつつある。

 大学にしても事情は同じだ。「経営感覚を導入しろ」として、金にならない研究から「実益のある研究」へのシフトを促し、入試の形態を変える(OA入試などはその典型だ)ことによって、経済的な余裕がない学生を入り口でカットする。そうすることで、「お育ちが良くて反抗しないおぼっちゃま、おじょうちゃま」によって、偏差値上位の大学が占拠されるようになる。間違っても、60年代のように、反抗的な学生を大学に入れてはならないのだ。

 考えない、知識がない人を増やすことは、知っている層にとってこんなに嬉しいことはない。飲食店などが安心してブラックバイトを使えるのは、学生に労働法に関する知識がないからだ。福島の経験が風化すれば、原発で発電した電力を抵抗なく受け入れる人が増えるだろう(最近になって補償を終わらせる動きが急ピッチだ)。「平和を守るために戦争ができる国にするんです!」という主張に疑問を挟む人もいなくなるはずだ。「日本は素晴らしい国だから間違いなどしない」という主張も心に響くであろう。まだまだいくらでもあるが、こんなに「素晴らしい」社会はない。

 自公政権と維新が目指す「二極化社会」とは、こうしたものだ。

2015年7月10日 (金)

この国民にしてこの政府あり、なのか

 民主国家で政治に絶望する、ということは、等しく国民に絶望する、ということだ。民主党政権が大失敗を重ね、中曽根内閣以来の「アメリカ化」に歯止めがかかる望みがなくなったとき、私はこの国の政治に再度、絶望した。半世紀以上を生きてきて、目の黒いうちにまともな政治になる可能性を感じられなくなった時、このブログを閉じ、この国の政治に対する墓標とするつもりであった。

 しかし、事態は私が想定していたよりも早く、悪い方向に向かっている。生きている間に政治がまともになる可能性はなくても、この国が本当に追い込まれて滅びて行く姿は見たくない。エゴイスティックな感覚だとは思うが、それが現実になってしまう危険は日に日に大きくなっている。もう一度、小さな声を上げてみようと思う。

(1)政策がどこに向かっているかは、誰が喜んでいるのかを見ればわかるものだが・・・

 安倍政権に対する支持率は、相変わらず高い。「アベノミクス」というごまかしによって、形だけは経済が好転しているように見えていることがその最大の理由だが、それにしても、安倍政権が次々と繰り出している政策を見て支持率が大きく下がらないということは、国民がそれらの政策に一定の共感を持っているという残念な結果だと思う。安倍首相自らが語っていたように、「自民党は安全保障法案の実現を公約にして大勝した。従って、自民党の安全保障法案は国民の支持を得ている」ということは可能だ。しかし、果たして、安倍政権を支持している国民は、政策の本質を理解しているのだろうか。

 政策は、本来、政権の支持層の意向が反映される。すなわち、政権が打ち出した政策に対してどのような層が肯定的か、ということを見れば、政権が向かっている方向がわかるものだ。しかし、政策はひとつではない。複数の政策があれば、そこには当然利害が異なる層の間で調整が必要になる。55年体制下では、自民党がさまざまな利害を集約してその調整役を果たし、社会党がそれでは足りない部分を補っていた。社会党が単独で政権を担うことはなかったが、自民党一党支配の中で、社会党の政策が巧妙に取り込まれたことも多い。しかし、小泉政権以来、自民党は「ぶっこわされ」、そうした調整機能を失い、時のリーダーの意向で突っ走るようになった。いわば、現在の安倍政権の政策は、「安倍首相がやりたいこと」に賛成か、反対かで、二極分類されている。

 そうなると、本来ならば利害の対立が鋭く起こるはずである。しかし、近年の「嫌韓」や「反中」に影響されて安保政策に共感する裕福とは言えない若者たちが、未熟練労働者や若者の雇用を脅かし、あまつさえ、持てるものと持たざるものの格差を固定化する政策を次々に打ち出している安倍政権を手放しで支持する光景は、摩訶不思議でさえある。

 こうした現状を見て、「一番大切な政策を支持しているから他は目をつぶっている」「興味がないことはわからないから」などと言ってみることは簡単だ。しかし、目をつぶっているのではなく「幻想を信じている」のであれば、問題は異なる。小泉純一郎という、希代のアジテーターを首相に持った国民は、「右向け、右」に飼いならされたのだろうか。その他にも、国民の意識に対する疑問は尽きないのだが、少し具体的に現在の状況を見直してみよう。

(2)政権はどこに向かっているのか

 日本の政治は、長らく「官僚の作文」を台本にして進んできた。金とポストで所属議員を操ってきた自民党の派閥政治の領袖が力を持ち、政治家の仕事は「政策を作ること」ではなく、金と票を運んでくれる支持層を向いて「都合のよい政策を作る官僚を見極めること」となった。小泉純一郎がいかに「自民党をぶっ壊す」と叫んだところで、彼自身が大蔵官僚に洗脳されていた訳で、官僚支配が変わった訳ではない。官僚支配そのものにも大きな問題はあるが、しかしながら現状は、官僚という「利益集団」の統制すら外れかけて、自民党内の一部による独裁構造が進みつつある。見かけ上のバランスを気にしていた官僚支配からは想像がつかないような政策すら、安倍政権になってからは当たり前のように繰り出されてくるようになった。

 現在、安倍政権が進めている政策を概観してみよう。個別の問題については、ひとつずつまとめようと思う。

1)安全保障

 安倍首相が筋金入りの改憲論者であることはよく知られている。しかし、憲法の改正はハードルが高いので、解釈改憲を繰り返すことによって「戦時慣れ」を先行させ、国民の改憲アレルギーを減少させる方針に踏み切ったようである。憲法の問題などは順に細かく見ていくが、基本的には「戦争ができる国家」を目指していることは明らかである。
 安倍首相の国家観はあちこちで語られているので、この場で繰り返す必要はあるまい。それよりも、「私が首相だ」という発言や質問者へのヤジなどからもわかるように、権力を持たせては絶対にいけないタイプの「お子ちゃま」であることが大きな問題だ。「こうしたいんだよー」という意識が先行して、理性的な思考が停止するのだ。現在では、政権の執行部自体が「総安倍ちゃん化」していて、報道機関などへの露骨な圧力を平気で繰り返している。こうした集団が安全保障をおもちゃにしているのだから、たまったものではない。「戦争もできない国はまともな国家とは言えない」という意識がこびりついている安倍首相にとっては、憲法の何たるかなどは「そんなの関係ねー」なのだ。

2)いわゆる「アベノミクス」

 株価が上がり、高額所得者や資産家にとっての天国がやってきた。高額商品が飛ぶように売れ、「景気は順調に回復している」という幻想が広がっている。「会社が儲かれば給料が上がる。そうすれば、国民全体の利益になる」と言いつつ、給料が上がる正社員をどんどん減らしていく。地方経済は完全に置いてけぼりで、上昇気流に乗ることができたのは、経済指標に大きな影響があるところばかりだ。御用エコノミストさんたちが「所得が増えているのは一部だというのは真っ赤な嘘」という論陣を張っている(ネットのあちこちにある)が、その嘘の種明かしもせねばなるまい。

3)労働者と企業の関係

 自民党が、応援団である財界向けの政策を進めていくのは、ある意味で当然である。しかし、財界に対してこれほどまでに露骨なすり寄りをした政権を、政治を40年見続けてきた私は知らない。「派遣恒久化法案」を一番喜んでいるのが財界である(経団連のコメントを見ればそれははっきりする)ことが、この法案の本質をよく物語っている。

4)エネルギー政策

 原発推進の「本音」がどこにあるのかを、もう一度見直す必要があるのではないか、が、昨今の厳罰推進派の主張を見ていて私が強く思っていることだ。原発は、数々の「嘘」と「隠蔽」で守られてきた。フクシマ以来、その嘘はかなり暴露されてきたのだが、推進派の主張は、もはや「開き直り」に近い。安倍政権の強烈な応援団である産經新聞の社説が、高浜原発の運転差し止めを認めた判決に対して

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決定は、高浜原発に対する規制委の審査内容をことごとく否定し、新規制基準に対しては「適合していれば万が一にも深刻な災害は起きないといえる厳格さ」を求めた。いわば、ゼロリスクの証明を迫ったものだ。だがゼロリスクを求めては、車は走れず、航空機も飛べない。一方で決定は、再稼働を認めないことによる経済的リスクや地元への影響などには言及していない。
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と書いているが、車や飛行機の事故と原発のそれとを同一するという、恥も外聞も捨て去った絶叫に近い戯言だとしか言いようがない。ここまでする意図は何か、そうまでして原発を維持したい理由は何か。それを考えると、「核武装できるための技術を保存しておくこと」以外に思い当たらない。荒唐無稽な話と思われる方も多いかと思うが、30年前なら自衛隊が海外で軍事行動をすることなど「荒唐無稽な話」であった。それを考えると、あながちあり得ないこととも思えない。

 まだあるのだが、大きくこの4つを取り上げてみると、安倍政権が向かおうとしている先がおぼろげながら見えてくることと思う。そして、この政権を支持している国民は、ことの本質を理解しているのだろうか、という疑念がぬぐい去れないのだ。

(この項、続く)

2012年7月31日 (火)

裁判員裁判の危険性/予防拘禁的な意味を持つ判決を憂う

 ある殺人事件の判決が30日に下された。まずは、読売新聞の報道をお読み頂きたい(下線は私がつけたもの)。

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姉刺殺の被告に求刑超す判決…大阪地裁

 昨年7月、自宅を訪ねてきた姉(当時46歳)を包丁で刺殺したとして殺人罪に問われた大阪市平野区の無職大東一広被告(42)の裁判員裁判の判決が30日、大阪地裁であった。

 河原俊也裁判長は、大東被告が広汎性発達障害の一つである「アスペルガー症候群」だと指摘。「社会内にこの障害に対応できる受け皿が用意されていない現状では、再犯の恐れが強く心配される」として求刑(懲役16年)を上回る懲役20年を言い渡した。

 大東被告は同月の逮捕後、大阪地検の精神鑑定で、この障害があると診断された。地検は刑事責任能力に問題はないとして昨年11月に起訴。公判で大東被告は罪を認め、弁護側は、犯行には障害が影響したと主張。保護観察付きの執行猶予判決を求めた。

 判決で河原裁判長は「約30年間、自宅に引きこもっていた被告の自立を促した姉に恨みを募らせた」などと動機を認定。障害の犯行への影響を認めたが、「量刑で大きく考慮することは相当でない」として量刑面の弁護側の主張を退けた。

 一方で、障害に対応できる受け皿が社会に整っていないとの認識を示し、「十分な反省のないまま社会復帰すれば、同様の犯行に及ぶことが心配される」と指摘。量刑判断に社会秩序の維持の観点も重要として「殺人罪の有期懲役刑の上限で処すべきだ」と述べた。

 最高検によると、裁判員裁判で求刑を超える判決は20日現在で26件。大半は1~2年だが、今年3月には大阪地裁で幼い三女への傷害致死罪に問われた両親(控訴)に求刑の1・5倍の懲役15年が言い渡された。
支援団体「障害の特徴に理解を」

  大東被告の弁護人の山根睦弘弁護士(大阪弁護士会)によると、公判では証人申請した精神科医に障害の特徴などを証言してもらい、弁論で「刑務所に入れるの ではなく治療が必要だ」と訴えた。山根弁護士は「裁判員に障害の実情を十分に理解してもらえなかったかもしれない」と振り返った。

 今回の 判決について、障害を持つ人々の家族らで作る兵庫県自閉症協会の岩本四十二会長(68)は「再犯の恐れがあるとの根拠を障害に求めるのは納得できず、障害 を持つ人が、事件を起こしやすいかのような偏見を持たれるのではないか。知的能力に問題がなくても、障害の影響で社会的規範が身に着いていない場合もあ る。そうした特徴をきちんと理解した上で、判決を下したのか疑問だ」と話した。

 一方、大阪地検の大島忠郁(ただふみ)次席検事は「コメントすることはない」とした。

アスペルガー症候群 生まれつきの脳機能障害が原因とされる。著しい言葉の遅れや知的障害は見られないが、対人関係の構築や感情のコントロールが苦手とされ、周囲から理解されにくい面がある。
(2012年7月31日 読売新聞)
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「保安処分」「予防拘禁」という言葉をご存知だろうか。

 保安処分とは、秩序を乱す恐れがあるものを犯罪を犯していなくても予防的に拘束したり治療を受けさせたりするもの。予防拘禁とは、狭義には刑期を終了したものを「再犯の恐れ」という理由で拘束を続けるものである。ミャンマーのスーチーさんが自宅に拘束されていたのはみなさんもよくご存知だろうが、あのような「緩い」ものだけでなく、実際に刑務所や精神病院に拘束してしまうことも、主に独裁政権下では行なわれている。日本でも、戦前は「治安維持法」が存在した。

 保安処分は、1970年代に自民党・法務省が導入を目指して法案化したが、日弁連を中心とする反対運動で葬り去られた歴史がある。まず、対象者を恣意的に決めてしまう恐れがあること、そして、保安処分そのものが「隔離」以外の意味を持たない(刑務所や精神病院が「矯正施設」として機能していないこと)ことが、反対論の主な点だった。(現実的には、2005年に「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行なった者の医療および観察等に関する法律」が制定されており、実際には保安処分と言えるものがある。精神障害者が裁判を受ける権利を侵すものではないかという重大な懸念があり、反対論も根強い。)

 今回の判決は、裁判員の素朴な恐怖感がもたらしたものだと考えられる。裁判員制度が「普通の市民」の感覚を裁判に反映させるためのものであるから、こうした結果もある程度予想はついた。しかし、現実的に刑務所が矯正施設として機能していない以上、こうした「予防拘禁」が、いたずらに刑期を延ばすだけのものになる可能性は高い。

 裁判員制度の問題点は他にもあるが、危険性が現実になった例として記憶しておくべきだろう。

2012年7月28日 (土)

新聞報道の読み方/例として、オスプレイ問題に見る産経の手法を検証する

 最近、ある読者から「社説って、新聞によってこんなに違うんですね」という感想をいただいた。社説に限らず、新聞各社の報道は、その社の考え方が色濃く影響している。

 例えば、国会議事堂前(官邸前からは排除されつつあるようだ)での毎週金曜日のデモの取り上げ方が、報道機関のスタンスを知るには絶好の機会だろう。フランスやイギリスだったら、議事堂前に毎週何万という人が示威行動をしたら、どこもトップニュースだ。しかし、実数で2万以上集まったときですら、NHKは取り上げず(NHKが取り上げなかったことをフランスの通信社が痛烈に批判したら、慌てて報道したが/苦笑)、読売新聞はわずか19行のベタ記事(大阪版では1行もなかったそうだ)。東京新聞の1面トップ、朝日の社会面ぶち抜きに比べて、「大したことではない」と印象づけようとする意図が見え見えである。

 それだけではない。自社の主張に都合の良いデータだけを見せて「粉飾」することも多い。特に、産経は意図的にウソもつく。謝罪・訂正記事が出た「東京の11区もが自衛隊の区庁舎立入りを拒否」(実際は立入りを拒否した自治体はない)という記事のように、意図的にウソを書いた挙げ句に、抗議されても翌日にコラムでまた同じウソを繰り返し利用する、などという手法は、産経の十八番だ。

 オスプレイについても、「安全だ」と言い張り(そのデータも、実は海兵隊が都合良く改ざんしたもの)、できるだけ安全に見せかけるデータを利用しながら、安全性に問題があることが浸透してくると、安全性には触れずに「配備の重要性」を説く。日を追って、データを換え、主張の内容が変化していることを見てほしい。

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オスプレイ 安全データに耳傾けたい
2012.7.1 03:31 [主張]

 米政府が垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの沖縄配備を日本に正式通告したことを受け、7月末に山口県・岩国基地へ搬入した後、8月に米軍普天間飛行場に配備される計画が確定した。

 森本敏防衛相は沖縄、山口両県を訪ねて地元調整に入ったが、墜落事故が続いたこともあって、「安全性」をめぐる地元の反対や抵抗感は根強い。

  しかし、北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の海洋進出で日本の安全が脅かされる中、米海兵隊の装備・能力を飛躍的に向上させるオスプレイの導入は、日米同盟 の抑止力を高める上で不可欠だ。政府は全世界的な運用状況や技術面も含めた安全性について丁寧に説明し、日本の平和と安全に必要な配備を粛々と進めてほし い。

 オスプレイは2005年、米政府が「すべての安全基準を満たした」として量産に入った。米海兵隊は世界で約140機を運用中で最終的に360機を導入する。

 問題は、沖縄配備を控えた4月にモロッコ、6月に米フロリダ州で墜落事故が起き、地元自治体や反対派などによる反対論や慎重論が一斉に高まったことだ。

 だが、モロッコの事故では「機械的不具合はなく機体の安全性に問題はない」と米政府が経過報告した。フロリダの事故も「設計上の欠陥を疑う理由はない」として同型機の運用が続いている。

 オスプレイの事故率は11年時点で10万飛行時間あたり1・12で、海兵隊の全航空機平均2・47の半分以下(米軍統計)との安全データもある。 それでも日米両政府が地元の不安に配慮して、フロリダの調査結果がまとまるまで岩国基地での試験飛行を見合わせることにしたのは妥当といえよう。

  オスプレイは老朽化した現行のCH46中型ヘリと比べ、速度が2倍、行動半径が4倍、積載量は3倍あり、「日本の防衛や人道・救難能力を飛躍的に高める」 (米国防総省声明)ものだ。飛行時の騒音レベルも低く、能力向上に伴って普天間での年間飛行回数を約11%減らせるなど、住民の要望にも十分に応える更新 といえる。

 「安全性」を口実とする一部の反対論に屈しないためにも、こうしたデータや事実を根気よく提示して説得することが肝要だ。同時に、防衛相と野田佳彦首相は同盟の最大の懸案である普天間移設にも力を注いでもらいたい。
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「事故率は1.12だから安全性は高い」にもかかわらず「安全性を口実とした反対論」と、オスプレイ配備に反対する議論を、事実に基づかない主張であるかのように扱っているのがわかる。ところが、事故率はいつのまにか変化する。

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オスプレイ低い事故率 感情的な危険論 7ルートで飛行訓練へ
2012.7.23 21:37

 岩国基地に搬入された垂直離着陸輸送機MV22オスプレイについて、米軍は4月のモロッコ、6月の米フロリダ州での2回の墜落事故の原因調査で安 全性を確認した上で試験飛行を行い、普天間飛行場に配備する。10月初旬からの本格的な運用では、本州、四国、九州など7つのルートを設定し、低空飛行訓 練を行うことにしている。

 飛行訓練の経路にはグリーン、オレンジ、パープルなど6つの色の名称が付けられている。それとは別に、中国地方の「ブラウン」ルートでも実施する可能性が、米側から伝えられている。

 訓練計画では、普天間飛行場のオスプレイを月に2、3回程度、2~6機ずつ岩国基地とキャンプ富士(静岡県)に移動。高度150メートル付近での飛行訓練を実施する。

 低空飛行訓練は、敵のレーダー網をくぐり抜け、敵地深く侵入する作戦を遂行する上で必要だ。これらののルートは、岩国基地に配備されている戦闘機FA18ホーネットなどがすでに飛行している。

 だが、全国知事会は19日、オスプレイが危険であるとして「自治体や住民が懸念する安全性の確認ができていない現状では受け入れることができない」と反対の緊急決議を採択するなど、飛行ルート下の自治体で反発が強まっている。

 オスプレイは開発段階や今年2回の墜落事故によって、その危険性ばかりが強調されているが、10万飛行時間当たりの重大事故の件数を示す「事故率」は、海兵隊が所有する固定翼や回転翼の航空機の平均事故率より低いのが実態だ。

 オスプレイの事故率は1.93。海兵隊の垂直離着陸戦闘機AV8Bハリアーの事故率は6.76で、海兵隊全体の平均事故率は2.45だ。普天間飛行場の現行機CH46ヘリコプターは1.11だが、むしろ「老朽化し使い続ける方が危ない」(森本敏防衛相)状態だ。

 防衛省幹部は「オスプレイの安全性をいくら説明しても、感情的になった地元から冷静に受け入れてもらえない」と嘆く。(峯匡孝)
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 あれ、事故率が少し上がっているぞ。実は、この「事故率」は、いずれも一定の根拠がある。というか、出典がある。もちろん、米国防省や海兵隊が作成したものに基づいている。

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オスプレイ 首相が配備の意義を語れ
2012.7.27 03:19 [主張]

 米国が沖縄に配備予定の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの安全性に関する日米合同委員会で初の協議が開かれた。

 日本側は米軍普天間飛行場や各地の飛行訓練を含む運用について、できるだけ住宅地を避けて海上ルートを飛行するなどの配慮を求め、米側も緊密な協議を約束した。

 日米合同委は在日米軍基地の運用や事故の取り扱いなど、日米地位協定に関する問題を政府間で話し合う常設機関だ。過去に米軍の低空飛行訓練について実務的合意をまとめたこともある。オスプレイに関しても、具体的な安全確保策などで成果を出してほしい。

 併せて、何よりも野田佳彦首相に求められるのは、日本の平和と安全にとってオスプレイ配備がなぜ必要かをもっと明快に国民に説明し、理解を求めることだ。

 オスプレイは現行のCH46ヘリと比べて速度や行動半径、積載量などを格段に向上させ、米海兵隊の能力や日米同盟の抑止力の実効性を大きく高める。日本を取り巻く安全保障環境が悪化する中で、日本自身のためにもその配備は欠かせない。

 米政府もオスプレイ導入が「日本防衛のための同盟の責務遂行に極めて重要」としている。日米合同委では、米側は地元の懸念を理解し、「米兵士の安全と同様に日本国民の安全に留意して緊密に連携したい」と約束した。

 注目すべきは、第1陣の12機が米軍岩国基地に搬入されたことを受けて、中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報が「配備の目的は尖閣諸島防衛にある」とする記事を大きく掲載したことだ。

 中国は漁業監視船など政府公船による領海侵犯を繰り返し、尖閣諸島や周辺海域の権益奪取の意図を明確にしている。オスプレイ配備で日米の抑止力が強化されることを認める反応ともいえよう。

 国内の反対論には最初から「危険なもの」と決めつけた「オスプレイ恐怖症」や、安全保障上の意義や必要性に聞く耳を持たない姿勢もみられる。政府がこうした流れに安易に迎合するようでは、国民の生命や安全は守れない。

 防衛省はオスプレイの墜落事故を検証する「分析評価チーム」を設置し、米政府の調査報告を独自に評価する態勢を整えた。首相を先頭に安全性を確保しつつ、10月に予定される運用を着実なものにすることが極めて重要だ。
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 あれ? オスプレイは安全なんですよね。「オスプレイに関しても、具体的な安全確保策などで成果を出してほしい」という必要はあるんですか?

 これは、原発の再稼動のときと同じ論理である。「安全だから動かした」はずなのに、これからも対策を続けると言う。安全ならいらないはずの追加対策を何故する必要がある?

 実際のところ、オスプレイの安全性はどんなものだろうか。

 そもそも、この「事故率」は、「クラスA」とされる重大事故だけであるが、海兵隊はなんとか事故率を低く見せようとして、クラスAの事故から重大なものを外している。

「ワイヤード」(http://www.wired.com/)によれば、海兵隊がクラスAから外した事故には、多くのエンジン火災事故や離陸直後に墜落した事故などもある。これらの事故を含めると、事故率は3倍にもなるのだ。

 こうした事実は、威信をかけて開発したオスプレイをなんとか定着させなければならない米海兵隊の思惑によってもたらされたものだが、もちろんマスコミ各社は知っているのである。アメリカに対する遠慮があるのか、オスプレイの配備に懐疑的なマスコミでも、事故率の数字については、米国防総省の発表をそのまま鵜呑みにしている。

 マスコミの報道には、こうした「ワナ」があることを、十分に理解する必要があるのだ。

2012年7月25日 (水)

脱原発運動が意味するもの/ひとりひとりが持つ危機意識が政治を変える可能性と、それを恐れる勢力のあきれ果てた主張

 脱原発の抗議行動が、安保闘争以来かという人数を集めている。学生運動の残滓漂う頃に学生時代を送った者としては、驚きとともに時代の違いを強く感じる。

 昔のデモは「動員」するものだった。そして、参加する団体がそれぞれに競い合う場でもあった。時として「目だつ」ために、不要な挑発(ジグザグデモなど)を行なったり、警備の機動隊とぶつかったりしていたものである。

 しかし、今回の脱原発・再稼動反対の行動は、全く意味が違う。

 東京新聞の社説には、私と同じような「驚き」と「期待」が込められている。恐らく、私と同世代であろう論説委員には、ある種の感慨もあったに違いない。

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反原発抗議行動に考える 人々の声が政治を変える
2012年7月25日(東京新聞社説)

 毎週金曜日の夕方、首相官邸と国会議事堂前は数万人の群衆で埋め尽くされる。原発再稼働に反対する抗議行動。「人々の声」をどう考えたらいいのか。

 小雨が降って、夏とは思えぬほど冷え込んだ七月二十日。霞が関周辺の路上は夕方から人々が集まり始めた。高齢者や母子連れ、働き盛りの若者たち。身に着けたTシャツや小物、手製のプラカードには反原発運動のシンボルである鮮やかな黄色が目立つ。

 午後六時。スピーカーから「再稼働反対」のシュプレヒコールが鳴り響く。開始の合図だった。

◆淡々と冷静な女性たち

 抗議行動は四月に数百人で始まった。いま街頭に繰り出す人の波は名古屋、京都、大阪、広島など全国に広がっている。七月十六日、東京・代々木公園で開かれた集会・デモには猛暑の中、十七万人(主催者発表)が集まった。

 膨れ上がる参加者の人数とは対照的に、多くの人々は拍子抜けするほど冷静だ。歩道の石垣に腰を下ろしていた中年の女性が言った。
「こういう運動で 原発が止まるとは思わない。でも、いま声を上げなきゃと思って」。暗がりの中、黙って掲げた手製の電光式プラカードには「NO NUKES(核はごめん だ)」という文字が光る。

 代々木公園で「原発、いますぐやめろ」というコールが響いた。すると、年配の女性は「“やめろ”って言ったって、そう簡単にやめられるもんじゃないわよ」と独り言のようにつぶやいた。

 スピーカーの声はずっと叫んでいた。だが、彼女たちは激せず、あくまで淡々としている。

 日本で大規模な街頭デモが繰り広げられるのは、一九七〇年の安保反対闘争以来である。首相官邸前に限れば、六〇年の安保闘争以来、ほぼ五十年ぶりになる。どこが違うのか。

◆政治の主役は政治家か

 かつてのデモは暴力的な行動を伴った。警察・機動隊の阻止線を突破する。それが目標であり「戦い」だった。

 だが今回は、まったく異なる。官邸周辺を歩き、声を出す。黙ってプラカードを掲げる。白い風船をかざす。風船は新党日本の田中康夫衆院議員が現場で配り始め、シンボルになった。そして午後八時になると整然と帰って行く。

 代々木公園で女の子を連れた母親はこう言った。「私は最近までワーキングプアで、忙しくて声を出す暇もなかった。上のほうで政治やってる人たちは何してるの。市民を中心に考えてほしい。子どもの将来が心配です」

 年配女性は「私たちはもう、どうなってもいいけど、若い人がかわいそう。長いものに巻かれろじゃなくて、個人一人一人が声を出さなければいけない。今日はそう思って来たんです」と応じた。

 官邸や国会議事堂前に集まるのは、こういう人たちである。

 かつて六〇年安保闘争の最中、岸信介首相は「私には“声なき声”が聞こえる」と言って騒然とした国会周辺のデモを無視した。

 いま「声なき声」の人々は声を出し始めた。収束しない福島原発事故の怖さ、今後も長く続く被災者の苦しみ、福島だけでなく首都圏や東北にも広がる放射能汚染。そうした現実を肌で感じて抗議の輪に加わっている。

 人々の街頭行動は原発再稼働だけでなく、政治のあり方をも問うている。政治とは何か。あれこれと考えるより、次の憲法前文を読んだほうが早い。

 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

 憲法は国政を「国民の信託による」と記している。だがいつの間にか、人々の間に「政治は政治家や政党がするもの」であるかのような思い込みが広がってしまった。私たち新聞もそうだ。政治面に登場するのは、ほとんどが政治家や政党の話である。

 政治の主役は国民であるはずなのに、代理人にすぎない政治家が主役であるかのような錯覚が広がった。街頭に立つ人々は本末転倒に目を覚まし「再稼働反対」のスローガンに託して、異議申し立てをしているように見える。

◆国民の声が届かぬ官邸

 象徴的な場面があった。七月二十日夕、鳩山由紀夫元首相が官邸前に現れ、こうスピーチした。

 「私はかつて官邸の中にいたが、いつか国民の声が届かなくなっていた。これから官房長官に会って、みなさんの声を伝えます」

 人気取りと批判するのはやさしい。だが、人々が元首相を街頭に引っ張り出したといえないか。主役が代理人を使う。それは本来、政治のあるべき姿でもある。声が届けば、政治は変わる。
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 こうした「声なき声が大きくなること」を極度に恐れている勢力がある。それは、「声なき民」の持っている「根源的な生存への恐怖や欲求」が明らかになることを恐れている勢力でもある。東京新聞の社説にある岸元首相の発言は、「声を上げる者と声を上げないものを分断した。それは、長い間の自民党政権の目指した「もの言わぬ民を増やす」政策の始まりでもあった。

 終戦直後から高度成長期にかけて、戦時下での抑圧体制への恐れや衣食住の不足によって、生活や将来について不安を持つ国民が多かった。60年安保闘争が空前の盛り上がりを見せたのは、「サヨク」の盲動などではなく、戦時体制の生々しい記憶や日本の将来に対する不安が、多くの労働者や若者を突き動かしたからである。コアな部分には理論武装をした「サヨク」がいたのだが、それだけであの大行動になったわけではない。だからこそ、権力は恐怖し、「サヨク」を「ふつうの国民とは別のモノ」と仕分けて、「もの言わぬ民」に多くの国民を誘導する政策を重ねたのだ。それは、労働組合の破壊(国鉄の分割民営化など)や、文部省が70年代以降強力に押し進めた、自由に考える力を放棄させる教育政策であった。

「サヨク」の暴走、戦略ミスもあって、そのもくろみは当たった。暴走したセクトの争いをクローズアップし、学生運動や労働運動を「特殊なもの」というイメージの中に押し込めることに成功し(スト権ストなどを思い出す人もいるだろう)、そして、大衆運動は力を持ち得なくなった。さらに、バブルの「ばか騒ぎ」や拝金主義、バブル後の社会の閉塞感なども影響し、「もの言わぬ民」が「もの考えざる民」となった。

 今世紀になって代わって登場した「大衆の声」とされるものが、ネットでのさまざまな発言である。

 ネットの発言の恐ろしさは、「他人の言うことを聞かなくても存在できる」ことである。経済的にも社会的にも、バブル崩壊後の閉塞感に圧せられた多くの人が、この「心地良い世界」にはまっていった。それは、「自分は悪くない」と思うことによってしか救われない、精神力の弱い多くの20代、30代の心のよりどころにもなってしまった。

 そうした人たちは、他者の行動を中身ではなく「レッテル」で判断する、ある意味で「判断力停止」の状態に陥っていることが多い。「サヨク」「エセ文化人」などの使い古されたレッテルばりをして、中身を見ようとしない。これは、ある意味では日本の社会体制が時間をかけて作って来た、なさけない姿そのものでもある。

 国会の事故調査委員会が、事故の原因を「日本の文化」に求めるかのような報告書を発表した。じゃあ、政府や東電の責任はどうなんだ、ということは当然批判の対象にはなるだろう。しかし、残念ながらその指摘は、ある意味で当たっている。考えない、判断しない、責任をとらない、というのが、日本の体制が「もの言わぬ民」へ求めて来たモノそのものだからだ。

 そのような意味で、産経に載った以下の論評は、ある意味で「思考放棄」の典型である。この記事を読んだ時、思わず仰け反った。2チャンネルでは喝采されているのだろうが(苦笑)

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2012.7.21 03:13 [産経抄]

 いまどきのおしゃれな文化人になるためにはどうすればいいのだろうか。若いときに電気をふんだんに使ったコンサートをやって人気者になり、ニューヨークの高級マンションに住む。もちろん税金は大好きな米国に払って日本には払わない。

 ▼菜食主義を一度は試し、電気自動車のコマーシャルに出る。還暦を過ぎれば流行の「反原発デモ」の先頭に立って、アジ演説をぶって拍手喝采される。目立ちたいのは文化人の業だが、もう少し本業に専念しては、と望むのは古くからのファンのないものねだりだ。

 ▼いままで書いてきたのは架空の人物の話。ただ、ミュージシャンの坂本龍一さん(60)が、16日に17万人集まったと称する(実際は7万5千人程度だったが)反原発集会での演説は、おしゃれな文化人そのものだった。

 ▼彼は、「たかが電気のために、この美しい日本の未来である子供の命を危険にさらすべきではない」とのたまった。確かに、たかが電気である。命には代えられない、と思わずうなずきたくなる甘いささやきではあるが、「たかが電気」がどれだけ多くの命を救ってきたことか。

 ▼東日本大震災でも17年前の阪神大震災でも真っ暗だった被災地に明かりが蘇(よみがえ)ったとき、どれだけの人々が感涙にむせんだことか。大震災直後の昨年春、たかが数時間の計画停電で、病院に影響が及び、どれだけの病人が困ったかを坂本教授は知らないのだろう。

 ▼昨日の首相官邸周辺でのデモには鳩山由紀夫元首相も参加した。原発への恐怖心を利用して騒ぎを大きくしようと画策する左翼団体や金持ち文化人、それに選挙目当ての政治屋どもに踊らされていることに参加者はそろそろ気付かれた方がいい。
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「原発への恐怖心を利用して騒ぎを大きくしようと画策する左翼団体」という下りに、産経抄氏の思考停止ぶりがよく見える。仮に思考が停止していないのであれば、「労働組合って、ストなんかやって怖いんだよ」という恐怖感を煽った過去の「成功の記憶」がそうさせたのかもしれない。

 しかし・・・ここまで落ちるとは・・・産経も、もはや2チャンネル並みとしか言いようがない。まぁ、コスプレ浮気男が「日本で唯一のまともな新聞」というのだから、こんなものなのかもしれない。

 計画停電で困った病人は確かにいるだろう。しかし、原発の事故で困った人がどれだけいるかわかっているのか。

 菜食主義を試すことのどこが悪いのか。電気自動車のコマーシャルに出ることのどこが悪いのか。それなら、「オール電化」のコマーシャルを作り、それに登場した人物は、原発事故をどう考えているのか。

 こんな低次元のことを大新聞社の論説委員が書いているという、哀しい日本の現実に嫌になる。

 ここまで読んで嫌になったら、もう一度東京新聞の社説を読んで、心を洗い流してほしい。

2012年7月23日 (月)

時によってスローガンが変わるのは目的のためにスローガンを作るから/「二大政党制」を叫んでいた多くのマスコミのほとんどが「決める政治」に転換したわけ

 日本が小選挙区制度を導入したのは、1996年のことである。それまでの中選挙区制度は、3人から5人の定数を持つ選挙区で候補者同士が競うものだった。そのため、自民党内でも「闘い」が激しく起こっていた。もう、それ以前のことを知らない人も増えているとは思うが、小選挙区制度が導入されるに至るまでには、さまざまな思惑があった。

 小選挙区制度の導入は、自民党の悲願であった。鳩山内閣(民主党の、ではない)や田中内閣でも小選挙区制度の導入がもくろまれたが実現しなかった。その目的は、自民党政権を「永続的に」続けることにあった。

 当時の議席配分は、概ね「自民党3、社会党1、その他1」を基本にして変動していた。しかし、時にして自民党が過半数割れ近くに追い込まれることもあり、自民党は自党に都合のよい小選挙区制度を導入しようとしゃかりきになっていたのである。当時の自民党とその他の政党の力関係から言うと、そのまま小選挙区制度が導入されれば、自民党がほぼ議席を独占しただろう。

 自民党が小選挙区制度を導入しようとしていた頃、その応援団たる読売などのマスコミは「小選挙区制度にすれば政権交代可能な二大政党制が育つ」と喧伝していた。もちろん、これは本音ではない。二大政党制が機能することは、即ち自民党が政権を手放すことが起こることであるから、そんなことを目指していたのではないのだ。本音は「自民党単独政権を生き延びさせる」ためのものだった。

 その目的は、ある程度達成されたと言えよう。価値観が多様化する中で、多くの矛盾を覆い隠しながら、自民党政権は基本的に生きながらえたからだ。

 しかし、状況は変化した。自民党が政権を去り、これまでの権力構造が崩壊する危機を迎えたのである。

 自民党、官僚組織、財界、そしてそれを基盤にする勢力が抱いた危機感は、尋常のものではなかっただろう。読売のナベツネ氏は、「大連立」工作に立ち回り、官僚組織は、総力を挙げて民主党政権を「先祖返り」させようとした。そして、その目論見は、野田政権で成就した。

 財務省のロボットに成り果てた(最初からか)野田首相と、同じように財務省の意向を体現している谷垣自民党総裁の元で、実質的な大連立が行なわれるに至ったのである。野田政権は、従来の自民党の主張をほぼ丸呑みした。公共事業を拡大するために消費税を上げ、アメリカ追随の外交政策に大きく舵を切った。

 そして、それを後押しするマスコミが「決める政治こそ必要」とはしゃいでいる。

「政権交代可能な二大政党制こそが民主主義」と主張していた輩の本心は、自民党政権が永続することにあった。つまり「政権交代がない選挙制度」として小選挙区制度を主張していたのだ。それは、「協力して決める政治を進めよ」と言っていることと、本音は変化していない。

 このように目先を変えることで、実質的にこの国の「官、財、政」のトライアングルは維持されて来た。そして、残念ながら、これからも維持されていくだろう。国民が彼らの「本音」に気づくことがなければ。 

«「原発ジプシー」は今も/もちろん、こうした実態を電力会社は知っているわけ。30年前から何も変わっていない電力会社の原発に対する姿勢

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